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ブログ倉庫1(2005/4-2014/10)

「カズオ、私があと10年若くて一緒について行けたら、お前は世界中で名声を築けるのに..」我が師、カルボーネ女史のこの言葉はオペラ歌手という職業の本質をよく表しています。
他の楽器と違って歌い手はその楽器を体の中に持っています。と云う事は自分の出す声、自分の歌う歌というものを客観的に判断するのがとても難しいという事です。自分が出す声が正しい音程であると思っても、実際に他人の耳で離れて聞いた場合正しくないというような事がプロのレベルでも起こります。
音楽家・演奏家の修行の大きな部分は、音を聞き分ける耳を作ることとも言えます。歌い手もその事は同じですが、ひとつ違うのは楽器そのものに付いた耳であるという事で、他の楽器に比べて歌の声は音の進み方が極端に直進的であるという特性と考えあわせると、自分の声や歌を、自分の耳で判断、コントロールすることが非常に難しいということになるのです。
ですから歴史的にみても、歌い手というものはいつも、他人の良い耳を求めて、それによって判断、コントロールして演奏を成り立たせてきました。つまりオペラ歌い手はいつも良いボイストレーナー、コントローラーとの二人三脚で成り立ってきたのです。
一対一のレッスンを重ねながら声や歌を作り上げてゆきますが、本番になり大勢の前で歌う時、オペラのステージで歌う時、毎回歌う周りの状況は違いますし、また歌い手の体、つまり楽器の状態も毎回違って二度と同じ状態は無いのです。
身近な例だと、プロゴルファーに似ているかも知れません。ショットやパットが面白いように決まる日がありますが、プロゴルファーのほとんどは、そんな理想的なラウンドの後でも、練習場で一生懸命練習します。それは今日のこの理想的なラウンドをつくり出した肉体が、明日の朝、同じ様なバランスで同じ様に動いてくれる保証なんてなにもないという事をよく知っているからでしょう。
オペラ歌手でもイタリアオペラのテノールとなると、他に比べて非常にリスキーな、スリリングな声をいつも求められますから、その時の体の状態によって天と地ほど結果に差が出てくるのです。それがために自分では把握しきれない自分の体、喉の状態、バランスなどを外から判断し、適切なトレーニングでコントロールしてくれる人が必要になってくるのです。
私の尊敬する偉大なテノール歌手にフランコ・コレッリという人がいますが、彼が全盛期ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場で歌っている時、自分の声の調子を保つために、自分の声を一番知っている歌の先生が住んでいるスペインまで毎日電話をかけて、電話越しに「アー、アー、アー」と発声練習を受けながら乗り切ったという話は有名です。
私の恩師、マリア・カルボーネ先生は1950年代まで世界中で大活躍したソプラノ歌手。名テノール、ベニアミーノ・ジーリ、それに作曲家のピエトロ・マスカーニとの3人のコンビは非常に有名でマスカーニのオペラのほとんどをジーリと歌っています。また前述の指揮者ジュゼッペ・パタネが、当時世界的な指揮者だった親の七光りで、幼少の頃にナポリのサン・カルロ歌劇場でデビューした時にもジーリと共に舞台に立っていました。ニューヨークにもたくさん客演して、ハリウッド西部劇のあのジョン・ウェインとは浮名を流した事もあったらしい。
そんなカルボーネ先生が僕をドイツに送り出す時に涙を流しながら言ってくれたのがこの言葉。
先生としては、僕の声と歌をコントロールできる所にいられたら、つまり時には舞台先に一緒に行って僕の声をコントロールできたら、先生がキャリアを積んだような、世界の一流の歌劇場でカズオも活躍できるのにと考えて教えてきてくれたのです。
そんなカルボーネ先生に最後にあったのは5、6年ほど前だったか。ドイツからイタリアに戻り、その後活動拠点を日本に移して、結婚し家庭を作って10数年、イタリアは初めてという女房と娘二人を連れて、久し振りにローマのお宅にお邪魔した。その頃はもう日本から自分の弟子を送ってお願いするような状況になっていたが、久し振りに受ける先生のレッスンは、故郷の実家のお袋料理のように、僕の声、歌を易々と甦らせてくれた。昔の言葉を憶えていたのかどうか聞けなかったが、彼女は誇らしげに言った:「ほら、カズオ!お前の声にはいつでも私が必要、お前の歌は私が創ったものだよ。」ー Kazuo, ricordati ! Tu sei la mia creatura ! –

次の日、ホテルで声を出してから劇場の通用門をくぐる.観客のいない真っ暗な客席に入ると、明るく浮き上がった舞台の上ではまだオペラのリハーサルが続いていた.
少しづつその場の状況に目が慣れてみると、舞台上にはセータを羽織ったドミンゴが立っていた.オーケストラピットの中のあのアフロヘアと特徴的な話し声はレヴァインだ.そして舞台には有名なヴェルディのオペラ「オテッロ」の第2幕が飾られていた.巨大な岩山の隠れ家のようなイメージの舞台装置の上で、ドミンゴと他の歌手達が殆ど声をセーブしながら動きの確認をしている.オーディションの事も忘れて10分ぐらいだろうか、僕はすっかり観客になっていた.
練習が終わり誰もいなくなった舞台を眺めている自分に、少しして暗やみの後ろからマエストロの声が言った.「やるづらいかも知れないが、あの舞台の上で歌ってみて下さい」.「えー、ドミンゴのいたあのオテッロの舞台の上で歌えるの?やったーー!」なんて今では叫ぶでしょうが、当時はそんな事はどうでもよくていきなり緊張したのを憶えている.特に自分が本調子でないことが緊張に拍車をかけた.
客席には4人いた.マエストロ・パタネ、ドクター・エヴァーディング、マエストロ・レヴァイン、それに多分劇場関係であろう知らない人.僕はその年いろいろなオーディションなどで歌っていた得意の曲を中心に並べた.最初にモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」のアリア”私の大事な恋人”を歌い、次にヴェローナでマエストロに褒められたロッシーニ「ウイリアム・テル」のアリア”ああ、懐かしき隠れ家よ”を無事にミス無く歌えた.
ただ3曲目に実は自信が今一つないドニゼッティ「愛の妙薬」のアリア”人知れぬ涙”を入れていた.この曲はなぜ難しいかというと、テノールの中の一番軽いレッジェーロという声の種類の代表的な名曲なのだが、僕の声がそのレッジェーロから比べてほんの少し重みのある声なので、その微妙なコントロールが僕にとってはとても難しいのだ.だったらそんな曲を無理して歌わなければと思うのだが、なかなかその頃の僕の声にちょうど合う「ドイツでも有名な」曲はあまりなかったのだ.僕のその頃の声で、ヴェルディやプッチーニを歌うのは、東洋人という事もあって舞台的に想像できない分、現実的ではなかった.結論的に言えば、自分がマスターしきっていない曲を、いろいろな事情があるとは言え、大事なオーディションで歌わなくてはならない状況に追い込まれていたという事であった.
実際の歌唱では、はっきりわかるようなミスや失敗はしなかったが、声のコントロールに集中せざるを得なかった分、表情や歌の全体の流れが不自然になって、聞く方にとってかなりつまらない歌に聞こえたであろうという感覚がはっきり残った.超有名な曲をつまらなく歌ってしまってはとりあえずノーチャンスである.自分自身ちょっと悔いの残るオーディションになってしまった.3人のマエストロに丁寧にお礼を言って劇場を後にする.
オールデンブルグに帰る電車の中で、ミラノでの最後のレッスンの時にカルボーネ先生が涙を流しながら言ってくれた言葉がずっと響いていた.「カズオ、私があと10年若かったら世界中どこまででもおまえに付いて行って聞いていてあげられるのに.そうしたらお前はパリでだろうと、ニューヨークでだろうと自信満々で名声を築けるのに..」<続く>

マエストロ・パタネとの約束が迫ってくる10月中旬、オールデンブルグ国立劇場での慣れないドイツ語の歌唱でちょっと狂い始めていた声を、トレーニングして戻そうという事でミラノのカルボーネ先生の下に里帰りし、2泊3日で毎日2時間近いレッスンをしてもらい、久しぶりに気持ちの良い声が戻って意気揚々とドイツに戻りました.
帰ってから11月のオーディションまでのスケジュールは、すでに幕を開けたワーグナーとロルツィンクの2つのオペラを3,4日おきに本番で歌うだけなので問題はないつもりでした.
しかし環境の変化というものは本当にきびしいもの、声をしっかりトレーニングして、イタリア語でうまく歌えるように戻したつもりでしたが、4日おきとは言っても、習いたてのドイツ語でお客さんの前で全力で歌うわけですから、すぐに歌う言葉のタイミングがドイツ語の狭いものに戻ってしまう.それに北ドイツの秋は早く、10月の中頃からは太陽の傾くのも極端に早くなり、午後3時頃にはもう真っ暗になるほどで寒くなってきます.そんな具合で11月に入った時には、もう体調をどう維持したら良いかわからなくなってしまい、風邪を引いたような感じで、歌の調子が極端に悪くなってしまったのです.
しかし今度のチャンスは千載一遇で、自分にとって非常に重要だし、さらには自分に期待を寄せてくれるマエストロ・パタネの為にも頑張らなくてはと思い、出番のない日は練習室を借りて一生懸命声を出してオーディションに備えました.
そして劇場の休暇を取っての11月のある日、電車に乗って2時間強のハンブルグに向いました.指定されたホテルに荷をほどき、その晩はマエストロ・パタネの振るヴェルディ「運命の力」の初日公演を見、終演後マエストロと食事.
その席で明日のオーディションには、ここの劇場支配人で、2年後にミュンヘンの歌劇場の支配人になる事の決まっている演出家でもあるA.エヴァーディング氏の他に、初日を5日後に控えたニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の初のヨーロッパ引っ越し公演ヴェルディ「オテッロ」を振る、J.レヴァイン氏も聞いてくれる約束であると言われた.
そしてマエストロは僕に、とりあえずDr.エヴァーディングに聞いてもらって、ミュンヘンの可能性を第一に考え、レヴァイン氏にはニューヨークでの可能性を聞いてもらおうと言ってくれた.
ここまで言われて、自分の調子がいまいち良くないんですとは言えない.どんな状況でも持てる力で頑張るしかない.<続く>

9月にオールデンブルグでのシーズン開幕公演のシリーズを成功半分、失敗半分でいかにも初心者らしく過ごした後の10月、すぐにミラノに里帰りしたのは、メランコリックな理由もあったが、11月に決まったハンブルグでのオーディションの準備をする為でもあった.
話は少し戻るが、オールデンブルグとの契約が決まった時、もうちょっと良い条件のポストが見つかるようにとカルボーネ先生が、先生の同郷(ナポリ)で世界的に有名な指揮者、ジュゼッペ・パタネ氏を紹介してくれ、彼がイタリアに戻って音楽祭を振っていたヴェローナに彼を訪ねたのだ.
イタリアオペラの最大の夏のイベントで歴史も長く、中世の円形競技場で繰り広げられる「ヴェローナ野外音楽祭」.夏休みになるといつも楽しみに出かけていたが、スタッフのサイドに入るのは初めてだった.円形劇場が本番の行われる舞台だが、その準備の練習のほとんどはもう一つある「フィルハーモニー劇場」で行われる.
7月に入ったばかりのその日は、朝から終日続くオーケストラの練習の休憩時間に、舞台に呼び出されて3曲ほど歌った.マエストロ・パタネは、カルボーネ先生と同郷の先輩後輩で、その教え子の僕をとても暖かく迎えてくれ、相談に乗ってくれました.
歌った後、オーケストラのメンバーが昼食をしているカンティーネに連れていって、「みんな、このMr.コバヤシが今、オーディションで何を歌ったかわかりますか?僕らイタリア人でさえ忘れかけているベルカントの至宝、あのロッシーニの”ウィリアム・テル”の超絶技巧のアリアですよ!」と言って一人一人に紹介して回ってくれました.
食事をしながら、もちろんもう決まっているオールデンブルグの契約の話しをして、できればイタリア語で歌える劇場で歌いたいと相談しました.ドイツと聞いて彼は「11月にハンブルグ・オペラに客演するので、その時に何人かの人に聞いてもらえるよう手配しよう」と言ってくれたのです.<続く>

そんな単調な生活の中で心が踊るのはミラノへの帰省だった.ミラノを出てくる時に「オペラ歌手として給料をもらえるから、毎月一回ぐらいは飛行機で帰ってきますよ」と恩師カルボーネ女史の前で切った啖呵を遂行するのはとても無理な話だった.オペラも練習期間が終わって初日を迎えてしまえば後は公演の日に体調を合わせて歌って行くだけであるから、スケジュール的には充分時間が取れた.しかし先立つものの計算が甘かった.給料は初年度が1,500 DM(ドイツマルク)、当時で12、3万円ぐらいの換算だっただろうか.しかし音楽ユニオン費、失業保険等の諸費が引かれて実質8〜9万円というところだった.北ドイツは生活費が高くイタリアで思い描いていた暮らしをしようとすると最初から無理だった.アパート代、借りピアノ代、食料品、交通費等すべて高かった.そんな状況でとてもイタリア帰省の費用が出るはずはなかったのだがどうしても帰りたかった僕は、もらい始めて3ヶ月目に早くも給料の前借りを事務局に願い出て、なかば強引にミラノの空気を吸いに戻った.ホームシックも少なからずあったが口実もちゃんとあった.生活の環境も変わり仕事の歌も全部ドイツ語になったので喉と歌の調子を崩していたのと、ある一つの重要なオーディションを翌月に控えてボイストレーニングをしなくてはならないというものであった.
飛行機はあっさりあきらめて、ドイツを北から南に縦断してスイスを経由してミラノまで行く夜行列車を使って帰る事にした.夜の9時に隣のブレーメン駅を出て、ドイツを縦断しスイスを越えてミラノ中央駅着が翌日の昼2時過ぎという列車で、当時、日本とヨーロッパの直通便が引かれたばかりで、情報だとパリから東京まで17時間で着いてしまうという事を聞いていたが、ちょうどそれと同じ時間がかかったというのを憶えている.カルボーネ先生と2,3の友人、それにお世話になるペンションへのお土産をバッグに詰めて10月中旬、初めてミラノ帰省の夜行列車に乗った.10月になると北ドイツは昼が極端に短くなって3時過ぎにはもう暗くなってくる.つい5ヶ月ほど前、反対向きの夜の列車でオールデンブルグに向っていた時は誰も人間の住んでいない地球の果てまで連れて行かれるような不安で一杯だった事を思い出し、自分の好きな人たちの住んでいる自分の故郷に帰るうれしさで心の躍る今回の帰省との違いを感じながら眠れずに目が光っていたのを思い出す.<続く>

僕はイタリアに留学しイタリア音楽を学びイタリアでの成功を夢見ていた.そんな僕にとってアルプスを越えてドイツ、オーストリアに職を求めに行くのはまさに「都落ち」であった.留学して早々に襲ったオイルショックからの経済不況下のイタリア事情や、個人的にも留学資金が底をつきイタリアどころかヨーロッパにとどまる事さえ難しくなってきた状況で、僕はドイツに職を求め1975年から77年までの2年間、オペラ歌手としてオールデンブルグの町に生活した.
初めての印象はとても美しい町だった.働く事になった国立劇場も美しく、昔のオールデンブルグ侯爵のお城の敷地内の、これまた美しい池の傍に立つ真っ白な劇場だった.町自身もこじんまりとしていてとても清潔感の漂う町並みで、お金のない貧乏歌手はよく町中を散歩した.「交響曲・不滅」の本の中にも町の写真が出てくるが、主人公達の家族が洋服屋を営んでいた小さな広場に面した一角もよく通ったし、彼らが町を捨てる事になるきっかけとなったナチス・ヒットラー達が集会をしたという馬市場(Pferde Markt)もよく散歩した.昔はこの馬市場が町の中心産業で、よく「ここは馬市場だからここの女性もお尻がとても大きいんだ…」と町の人達から聞いた.
僕は町の中から郊外、そこら中を歩いた.でも僕にはどこがどうだったか細かい記憶がほとんど残っていない.自分が歌うべきイタリアの地から離れてしまい、劇場のレベルのわからないような小さな町から、どうはい上がったらいいのかわからないまま悩んでいた.不安を取り除く為せまい部屋から外に出て何でもいいから歩いていた.失意の自分の心の中ばかり見ながらほとんど上を向かなかったのだろう本当に町の景色を記憶に残していない.
北ドイツにはとてもしっかりした個人主義が発達していて我々のような異邦人を受け入れてくれるのはほんの一握りの人たちだった.さらにこちらが独身の若い男となるとまずは家庭単位で受け入れてくれなかった.そんなわけで友人も少なく世界中から取り残されたような気持ちで毎日の生活をしていたような気がする.北杜夫の「フランドルの冬」に出てくる主人公さながら、寒い雪の町外れで宿を探して歩く自分の姿をなんども夢に見、自分の境遇に重ね合わせていた.<続く>

1975年9月14日、オールデンブルグ国立劇場が新シーズンをオープンさせた。プレミエレ公演はワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」、僕は羊飼いの役で無難にドイツでのオペラデビューを果たした。しかしそれから一週間もしないで、今度は自分にとって大事な準主役としての、オベールの3幕オペラ「フラ・ディアボロ」の再上演のステージに臨んだ。
前年にも上演されているこの喜歌劇は、出演者全部にセリフがあり、他のメンバーは「あうんの呼吸」で歌い、演技している。そんな中で日本人の私とアメリカ人のソプラノ歌手、フラン・ルバーンが「Anfaenger」(新人)として頑張ろうとしていたから大変だった。
一ヶ月間は私と彼女だけの集中稽古だけだったので、二人は公演の5日ほど前に残りの出演者達に初めて通し稽古で会った。その通し稽古や最終のステージでの稽古でも、再演ということで慣れている彼らは、もらった台本どおりにセリフは話さないし、アドリブだらけである。セリフはころころ変わるし、僕等が歌いかけようとしてもそこには誰も居なかったり、誰がどの役かもわからない。なんという事だ、初日がせまっての最後2回ほどの稽古はこんな緊張でパニック寸前の状態で過ぎていった。
そしてついに初日。幕が空き、一生懸命歌った。緊張した出番も一区切りついたと思い、舞台袖で汗をかきながら深呼吸をしてほっとしたとき、自然に口からセリフが出てきて舞台上の音楽に合わせて歌っていた。舞台監督が飛んできた。「お前何やってるんだ!」。その瞬間、自分が歌うデュエットを舞台裏で歌っていたことに気付いた!
愛の二重唱を舞台で一人で歌っていた恋人役のフランの元へ、歌いながら登場し、なんとか終演した。この時の失敗はその後、日本に帰ってからも準備不足のオペラの本番前などにいつも夢に見るようになった。”罰金”をしっかり給料から引かれたのは言うまでもない。後にも先にも、これが最初で最後の大失敗だった。<続く>

8月1日の仕事始めに備えて10日ほど前に、今度は大きなバッグを衣類と楽譜で一杯に膨らませて再度オールデンブルグの駅に降り立った。
劇場の事務局の紹介で同じ劇場で働く3人の日本人を紹介された。日本ではクラリネットで嘱望されたが、競争率の高い楽器ゆえにヨーロッパではなかなか職場が見付からず、結婚したドイツ人の奥さまの提案でクラリネットをビオラに持ち替えてここに職を得たO氏。東京のオーケストラでの長い職歴を全部捨てて、ドイツに新天地を求めて家族ごと移り住んで頑張るコントラバスのM氏、それにやはり東京でデビューした後、アメリカや他のドイツの劇場などを転々としてここにたどり着いた、まだ若い独身の男性バレーダンサーS氏。家庭が全部日本人で一番相談に乗ってもらえるという事でコントラバスのMさんにアパート探しから契約、それに細かい生活のことまで何から何まで全てお世話になった。
仕事を始めるにあたりまず一番問題だった「外国人就労ビザ」が事務局の手配でクリアになったという報告を受ける。これでめでたく僕の契約が効力を発することとなった。9月にオープンする新シーズンのプレミエーレ公演を始めとする出演演目の練習が始まった。この年の新入りの歌手の中に、僕と同じ「新人契約」としてドイツデビューをするアメリカ人のソプラノ歌手がいることを知った。アメリカで学校の教師をしていて夢を果たすためにオーディションを受けてドイツに渡ってきたという、スレンダーで長い金髪の美人で名前をフラン・ルバーンといった。ドイツ語は僕と良い勝負かもしれないと思うくらい喋れなかったのを憶えている。二人とも同じ演目でデビューするためほとんど毎日一緒だった。朝から二人揃ってドイツ語のセリフの稽古を受け、その後はコルペティと呼ばれるオペラの稽古ピアニストの元での音楽稽古。一緒にカンティーネで食事して午後は演出家の先生との立ち稽古、これもほとんどいつも二人だけだった。最初は彼女にたいして語学的に少し優越感を持っていた自分だったが、やがてすぐに自分のオリジンの言語体系の違いを身をもって知らされるようになった。彼女はアメリカから一度も外国に出たことがなくドイツ語は本当に初心者だったが、英語とドイツ語の親戚関係は強かった。僕が日を追ってもなかなか上達しないのに、彼女のドイツ語の上達は目を剥くほどの速さだった。この違いが後々の二人の将来に少なからず違いを生むようになってゆくのだが、東洋人としての大きな壁をはっきりとした形で感じはじめたのはよく憶えている。<続く>

やっと掴んだオールデンブルグ国立劇場との専属オペラ歌手の契約書を持ってミラノに帰ってきた.歌の先生に報告すると「Kazuoが地の果てのように遠くて行き来の簡単にできない日本に帰ってしまうよりは、あまり好きではないがドイツだったらイタリアと地続きなんだから何かあったらいつでも帰ってこれるから、ともかくよかった」と喜んでくれた.「それどころか歌い手としてちゃんと給料をもらえるんだから、声の調子が悪くなったらすぐ飛行機で帰ってきますよ」とちょっと偉そうに答えたのを憶えているが、その後ドイツで生活し始めてからすぐに現実の厳しさを味わう事にはなった.ドイツの殆どの劇場では当時、イタリア・オペラもフランス・オペラも全てドイツ語で上演されていた.8月までの一ヶ月半の間、私に与えられた大きな課題はドイツ語の習得だった.もちろんイタリア語とともに音楽には必須なので大学時代にそれなりには勉強してあった.しかしイタリアで生活をし始めてから僕の頭脳の語学関連の部位は、中途半端な英語やドイツ語の部分を消去してイタリア語が詰め込まれ始めていた.ドイツ語なんて簡単な会話ですらとても使えるような状態ではなかった.すぐにドイツに移って現地で学び出せば良かったのだが、第二の故郷のように好きな町を離れがたく、ミラノでドイツ語を勉強する事にした.すぐ仕事で使う為に非常に集中して勉強するので、やはり一番は個人指導の語学学校という事で日本でも有名な「ベルリッツ」に申し込んだ.そして初めてのレッスンの日、その個人指導のドイツ人に会ってみると、なんとこの女性が、僕と同じ門下、つまりカルボーネ先生のところで一緒に歌を勉強しているドイツ人のソプラノだったのでびっくり.彼女はアルバイトでドイツ語を教えていたのだ.良い人を見つけたので、もちろん払ったお金は返してもらえないのだが、ベルリッツには内緒で個別の特訓を安く沢山してもらった.さぞかし上達して8月からの劇場での練習では不自由なかった…と言いたいところだが、実際のところその時はさっぱり身に付かなかった.今考えてみると、ドイツ語を教えてもらうのだが、説明などは全部イタリア語だった.もちろんミラノのベルリッツなんだから当然なのだが、個人指導の同僚ソプラノのイタリア語は私より下手で、彼女としては習得途中のイタリア語を駆使して説明しようとするので、イタリア語の会話に優越感を持つ僕もついついイタリア語が多くなるという状況が作られてしまい、後々の実感として、この期間にドイツ語ではなく、逆に僕のイタリア語が飛躍的に上達してしまったという結果になっていたのだ.そんなドタバタ状況でのドイツでの劇場デビューの時のはなしは、<続く>

ピアニストにお礼を言って、続いて劇場支配人室に呼ばれる.ハリー・ニーマン氏は芝居の演出家もするが、劇場支配人としてのキャリアは長いらしく、日本人歌手と仕事をするのは2人目ですよとおっしゃった.聞いてみると初めて劇場支配人として赴任した先の劇場に一人、日本人のバリトン歌手がいて、今でも憶えているが素晴らしい歌い手だったと言う.日本人のアーティストに偏見を持っていないと知って安心した.テーブルの上に秘書の方が作った契約書が差し出され名前の横に「イタリアン・リリック・テノール」と書いてあった.昨日までとのあまりの変化に僕はどこにいて何が起こっているのかしばらく理解できなかったが「ヨーロッパで日本人がイタリア歌手として契約を取った」事は確かだった.「1、あなたは他の国ではともかくここドイツの劇場においては初めての仕事であるから「初心者契約」(Anfaenger)になり、初任給はすべて含んで1,500マルク、2年契約とする」、当時の日本円に換算すると約11〜12 万円ほどだったと思う.「2、今年の出演演目は、プレミエ公演のワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の羊飼いの役、ロルツィング「皇帝と船大工」の第1テノール、プッチーニ「外套」の第2テノール、「ジャンニ・スキッキ」は第1テノールのリヌッチォ役..その他…但し、当劇場はすべてドイツ語での上演です」.大丈夫です、今からしっかり勉強しますから…と云おうとしたら「最後に補足条項として、上記契約をつつがなく遂行する為に必要なドイツ語を8月1日の練習開始日までにマスターしてくる事」と読み上げられた.秘書の方の指の示すままに4,5個所にサインをし、ニーマン氏と8月の再会を約束し、かたい握手をして部屋を出る.後で一つ一つ考えてみると沢山の問題があったのだが、ともかくもその瞬間は「ああ、これでヨーロッパに留まれる、日本に帰らないで済む」という感慨が一挙に沸き上がってきたのを思い出す.さらには事務室に連れていかれ細かい専属契約歌手としてのいろいろな説明を受ける.健康保険や諸々の書類作りからドイツの劇場ユニオンへの加入、さらにはこの町で生活する為の部屋を探す事など、すべてこの短い期間にしなくてはならない事を指示され何枚もの書類にサインした.最後にミラノの住所を書き伝えて出かけようとすると、支配人室でも説明を受けたが、外国人就労ビザの問題をもう一度念を押された.外国人の就業者がとても多いドイツは、州や市、町単位で外国人就業者の数が決まっていて、そこに空きができなければ就労できないし、すべての契約もキャンセルされるというものである.当時このニーダーザクセン州では外国人の新規登録の空きが無い状況だと説明を受けた.「ただ、「国立」の劇場であるこの劇場が文化行政上重要なものであるため、ここからの申請は多分優遇されるので大丈夫だと思いますが、万が一という事もありますから」という事だった.しかしこれは僕が頑張ってもどうにもならない問題なので劇場側に頑張ってもらうしかない.事務局長にお礼を言いやはり再会を約束して劇場裏手の楽屋口から外に出ると、そこには青々とした緑に包まれて中世風な小さなお城の形の建物と池の水が夢の中の情景のように広がっていた.というわけで沢山の不安を胸に一大決心をしてミラノからドイツに来てみた、そして一晩明けてみたら僕は西ドイツ・オールデングルグ国立劇場の専属歌手として契約していた.<続く>