ヨーロッパ縦断特急(TransEuropeExpress)に乗ってフランクフルトに着いた.劇場でオペラ歌手としての仕事を得る為には、劇場側のオーディションを受けなくてはならない.個人的に申し込んでも受け付けてはくれるが、大概は我々のような歌い手と劇場側の間を取り持つ大小のエージェンシー(代理業者)に頼む事になる.僕の希望は、ミラノのスカラ座でデビューしたとは言え、まだプロとしては仕事の経験が無いのだから、ともかく日本に帰らずにヨーロッパで歌う事だった.一番の望みはイタリア語のオペラをイタリア語で歌う契約を取る事である.ヨーロッパはどこに行ってもオペラはその書かれた原語で上演されていると思われがちだが、現実はその反対で、劇場の8-9割ぐらいはその劇場の建っている現地の言葉で上演されている.東京で「蝶々夫人」や「フィガロの結婚」が日本語で歌われるのと同じである.
不景気なイタリアには僕の歌う場所は見つからなかったのでドイツに来た.だからドイツに来た以上はかなりな確率でドイツ語で歌わなくてはならない事も覚悟はしてやって来た.ミュンヘン、ハンブルグ、ウィーンなどを始めとする10あまりの大都市の劇場では100%原語で上演しているのでそこが一番のねらいだが初心者としてはもちろん無理だ.ドイツの劇場圏はドイツとオーストリア、スイスなどが一緒になっているので、イタリアに近いスイスやオーストリアにゆくと、もうすこし小さな劇場でもイタリア語で歌えるというので、現実的な就職の狙い目はそこに置いていた.
フランクフルトの劇場のすぐ近くのエージェンシーのホレンダー氏にその辺を相談すると、早速その日の午後に劇場の大きなリハーサル室で歌を聴かせてくれということになった.
季節を言いわすれたが5月初めである.その時期はすでに大体の劇場は9月からのシーズンのオープンに向けて準備が終わっている頃なのだが、最後の調整の季節でもある.その最後の歌手を探したり、僕らとしては残り少ないポストを探すのである.
その日のオーディションは、そのエージェンシー用と、フランクフルトの劇場用のオーディションとを兼ねていたようで、15人ほどの歌い手達が集まっていた.一曲歌っただけで終わりの人もいれば、何曲か歌ってその後も長々と話し声が聞こえてくる人もいた.きっとああいう人は進展があって仕事にありつけるんだろうなあなどと考えているうちに自分の番が来た.ステージに出ていって簡単に名前と歌う曲名を告げ、伴奏の楽譜をピアニストに渡す.得意のオペラのアリアを一曲歌うと、真ん中の一番前で聞いていた方から「もう一曲なにかお願いします」.そしてもう一曲歌うと、今度はその方が後ろを振り向いてホレンダー氏とあと2,3人の方々と一緒になって、背を向けたまま話し合いをはじめた.お、これは良い兆候かも….と思いピアニストの方を向くと、そのピアニストが小さい声で「ちょっと、来て」と僕を呼んでいる.そばに行くと楽譜を僕に返しながらボールペンで楽譜の端に何かを書きつけ、小声で「Tu devi andare qui !」「君はここへ行かなきゃダメだよ」と言って笑いかけてくれた….? なんのことだろう?<続く>

今朝早朝、欧州チャンピオンズリーグの決勝戦、ACミラン対リバプールを見てまだその興奮からさめない.
劣勢だと言われたリバプールが王者ミランに前半だけで3点も入れられたのだが、なんと、なんと後半あっというまに3点を取り返して3-3に持ち込み、延長戦の後、最後はP.K戦を制して、逆転優勝をしたのだ.
実は準決勝でそのリバプールに負けてしまったチェルシーを、今年はプレミア、CLともずーっと応援していたので、そのチェルシーの分もプレミア勢のリバプールに勝って欲しかったし、ランパードのライバルのジェラードには大活躍をして欲しかったので、TVを見ていて夢じゃないかと信じられないほどすごくうれしかったし、なんともその勝ち方が感動的でしたね.
実力では王者ミランに一歩というか半歩ぐらいは譲るところがあったのだろうと思いますが、地道に自分たちの力を信じて、3点入れられても、キレるわけでも投げ出すのでもなくて、自分たちを信じてできる限りのベストを尽くし続けたら、同点になっていた、勝っていた….という..こう書いていても感動がよみがえってくるような素晴らしい戦い方でした.
冷静に分析すれば、多分各々のリーグでの状況とそれによるスケジュールの違いがもろに出たのではないのだろうか.リーグも終わり中9日のリバプールに対して、まだ消化しなくてはならないリーグ戦を残して過密スケジュールの中4日のミラン.試合勘が少し鈍っていたリバプールに対して、連戦のミランの方が鋭いものを持っていたのであっけなく前半に3点をもぎ取った.でも連戦のミランはここ何戦かどうしても後半に動きが落ちる、そこに休養充分のリバプールのエンジンがかかってきたら、これも本当に短時間で3点を取り返してしまう.延長やPK戦になって試合が長引けば長引くほどミランに不利になっていった.でも最後はやっぱり長年じっとこの日まで我慢して復活を信じてやってきたサポーターを含めたリバプールの思いが、精神力がクレスポのPKを阻止したのだろうと感じました.おめでとう!
今、頭の中に繰り返し浮かび上がってくるのは、後半、逆転の烽火を上げるきっかけになったヘディングシュートを決めた後、そのジェラードがボールを持ってセンターサークルに走りながら、チームメイトやスタンドのサポーター達に「もっと、もっと」と大きなジェスチャーで応援を鼓舞するシーンです.
自分の信じるところを迷わずに、地道に努力する….奇跡だって起こりますね.こんな勝利を僕もしたい.
母校くにたち音大の大学院を中退してイタリアはミラノの国立ヴェルディ音楽院に留学したのはもう30年以上も前になる.日本-イタリアの往復航空券が副賞だったコンクールに優勝し、さらにイタリア政府の給費留学生にも受かったからには、7人兄弟の6番目、大学でも奨学金を頼りに勉強していた身としては、一も二もなく大学院を中退してアリタリアの飛行機に飛び乗った.
あっという間に奨学期間も終わり音楽院はオペラ歌手コースでの2年目が過ぎ去ろうとしていた.政府からの奨学金は本当はそれなりの学生生活が送れる額ではあったのだろう.しかしミラノに着いてすぐにあの「オイルショック」、みるみる貨幣価値が下がり最初から奨学金だけでは食っていけない状況で勉強していた.最後にどこかのオペラ歌手コンクールで入賞でもして、それを手土産に留学を終えて日本へ帰るというのがその頃の留学のパターンで、帰れば日本ではすぐにでも舞台に立てた時代である.
音楽院での修了公演でオペラの大本山ミラノのスカラ座の舞台に立った.オーケストラやスタッフはみんなその大本山のプロ達であった.その頃から「本場イタリアにいながらその本場の劇場の舞台に立たずにどうしよう、まだまだ帰りたくない」という猛烈な欲求が生まれてきていた.しかし景気がどん底だったその頃のイタリアにどこにも外国人の歌手など雇ってくれるところはないとわかった時、どうにかしてイタリアと言わずヨーロッパの端っこでもいいから、劇場で歌う仕事につきたいと..一途に思うようになっていた.
7人兄弟6番目が23、4才ぐらいの息子を持つ親というのはもうとっくにリタイアの年齢であったし、イタリアへの仕送りも本当にギリギリのところから出ていた.でも親のスネなどカジれなくなったら本当になにも出てこないのだ.
2年で帰ると約束した留学期間がもうすぐ終わるという時、母親が鉛筆をなめながら書いた短い手紙と共に最後の仕送りが来た.「もう家も限界、情けないけどこれが最後です.帰りの飛行機代にして帰ってきて下さい.母より」とてもこっちに残りたいなどとは言えない.
でも何とか残りたい…と先輩達の話を聞くと、ドイツに行くと沢山劇場があって専属歌手の口もあるという.何としてでもその可能性にしがみつきたいと思うが沢山の障害があった.イタリアとドイツでは同じオペラでも全然違う、ドイツオペラなんてと、ふつうイタリアで勉強した人たちは軽べつする.僕もそうだった.そんな理想はこの際一時的に捨てたとしても、ドイツ語がしゃべれない…これは決定的問題.だがもっと決定的だったのは、試験(オーディション)を受けに行くにもドイツは遠くて旅費、宿泊費がない…これで万事休す、日本に帰るか?
でも僕は若かった、いや馬鹿だった.目の前に帰りの飛行機代があるじゃないか、、、でもこれ使ったら本当に日本に帰れなくなる…..よくわかってなかったが、そうなったらそうなったで大使館でも領事館でも駆け込むしかない…それで決心がついた.
劇場関係のマネージャーのいるフランクフルト行きの片道切符を買いミラノ中央駅から、着替えとオーディション用の楽譜を3,4冊抱えて、ヨーロッパ横断特急(TransEurope Express)の車中の人となった.<続く>
僕のキャリアで2つ目となる男声合唱団がついに発足し練習を開始した.
一昨年まで約5年間、一つ目となった100名を越える男声合唱団に関わって、トレーニングと演奏の指揮など音楽部分を一手に引き受けてやって来たのだが、ある事情で昨年その役を下ろさせて頂いた.慣れ親しんだメンバー達との別れは非常に苦しい事であったが、音楽を生業とする者の一人として貫き通さなければならないものを感じた以上どうしようもなかった.音楽家でなくてもメンバーの中には僕と同じ事を感じ団から離れていった人たちも何人かいた.
それからのこの一年、そんな仲間達とよく神田の中華料理屋で紹興酒の杯を重ねて喋りあった.気持ちはみんなよくわかるが、一時は3日と開けずに声を出して練習していた合唱ができない寂しさが僕にはよく伝わってきた.なんとかしたい、早くまたみんなで大声で歌いたい….歌う喜び、歌う楽しさ、を知ったこんな仲間達にとっては長い一年のブランクだったと思う.
そしてやっと再開のスタートが切れました.今度の男声合唱団は、以前の100名超に対して総勢10名から始まりました.都内の小さなスタジオ、夕方6時の約束の時間に着いてみるともう、顔を知った仲間が万面の笑みを浮かべながら待っていてくれました.それから一人、二人と集まって総勢10人になったところで練習開始.以前の仲間が5人、彼らが連れてきた新しい仲間が5人.
男声の合唱は普通声の高い順にテノール1、テノール2、バリトン、バスと、4パートにわけてハーモニーを作ってゆく.
高い声や低い声ばかりが集まっても合唱はできない.おそるおそる各人のパートを確かめてみると、ちゃんと4つのパートに分ける事ができました.テノール1が4人で残りの3パートともちょうど2人づつ納まって初回からしっかりハモる事ができたのです.
よく知っている「ふるさと」や、簡単だが男声のハーモニーの素晴らしさをすぐ感じられる「希望の島」という曲などを、おしゃべりをしながら和気あいあいと練習した.驚くべき事に10名で初めての練習で2曲ともきれいにハモる事ができたのです.
あっという間に過ぎた3時間、スタジオから追い出されるように飛び出し、みんなですぐ下のカラヤン広場に降りて行きパブに飛び込む.歌った後ののどの渇きに、また仲間が集まって合唱を再会できたという興奮とが加わっての、高揚したみんなの乾杯の大声とお喋りを聞きながら「やっと戻ってこれた」と心の中でつぶやいたのは僕だけではなかっただろう.
音楽は、それをする人をきれいに飾り、きれいに見せるような衣装でも、お化粧でもないと思う.
音楽はそれを精進する事によって、音符や声、楽器を通して、その人自身をすべて表に出してくれるものです.僕はそう思って音楽を続けてきました.
この新しい合唱団は、ステージに立った30人なら30人、40人なら40人の全てのメンバーが一人一人、生き生きと自分の生き様を表現できるようになる事を目標としたい.
オペラ歌手、声楽家…になるきっかけは高校時代の合唱だった.団塊世代の中学高校時代は、巨人・大鵬・卵焼き..といわれたが、他にもPPM(ピーターポール&マリー)から始まるフォークソングが流行り、ちょうど高校に入る頃には「高校三年生」の舟木一夫が銭湯の中からデビューしてきた.
野球、陸上と屋外で飛び回っていた僕が中学時代には卓球部に入った.毎日の体育館での練習、我々卓球やバスケットなどの練習が終わるある秋の夕方、静かになった体育館の隅で地区の合唱コンクールに向けて最後の追い込み練習に入っていたコーラス部の歌が流れてきた.それが何とも甘く心に残った.流行り出したフォークソングや、英米の流行歌を聞きかじってはギターを習い始めた親友と一緒になって歌って遊んでいた僕の胸にしっかりと刻まれて残った.
我々団塊の世代のもう一つの代名詞に「受験戦争」があった.割と良い成績で高校にも入ったせいで、最初から受験競争の最前線に放り出されたが、元来あまのじゃくだった僕は気に入らず「進学しないで早く社会に出て仕事がしたい」と突っぱね「就職クラス」に.その時に教育実習で我々のクラス担当となった当時国立-くにたち-音大学生の佐々木先生によって僕の音楽の世界が開かれた事は僕の生涯の分岐点になった.
笑い話だが同じ「かずお」という事で舟木一夫に自分を重ね合わせ、彼の歌を歌って芸能プロダクションのオーディションを受ける寸前までいった.運命の偶然は、すっかり受験気分になっていたそのオーディションの指定された日付が直前にプロダクション側の都合で変更になった事だった.今度はコーラス部の県大会出場のステージと重なってしまって、その頃にはすっかり佐々木先生に信奉していたコーラス部のメンバーの僕としては、泣く泣くオーディションを諦めざるを得なかった.そこから先、佐々木先生からコーラスと歌の素晴らしさを教えてもらい、すっかり音楽の世界をめざすようになり、彼女の母校、国立音楽大学の門をくぐっていった.音大を出、イタリアに留学し、そのままイタリア、ドイツでオペラ歌手として仕事を始めました.
その後帰国して日本で歌うようになったそのデビューがベートーベン「第9交響曲」の独唱者としてであったが、この公演は毎年国立音大のコーラスがNHK交響楽団と共演する暮の大イベントだった.
これも偶然であるが不思議な事に、合唱育ちで、国立卒である僕なのに、この恒例の「N響・第9」のコーラスのステージに学生時代には立っていなかったのである.僕が国立の3、4年生(第9出演は3,4年生)だった時だけN響は、当時活動が盛んだったプロ連(日本プロ合唱団連合-今はもうない)に第9の合唱を任せざるを得なく、国立の学生との暮の第9共演がなかったのである.
そうやって高校での合唱を最後になぜか、合唱とはすれ違いを繰り返してきた僕が、オペラ歌手としての仕事も山を越えはじめた1999年に偶然、ある男声合唱団を立ち上げ、指導する事になった.
このへんの話は長いので、<続く>としてまた改めて書いてゆきます.
今回は新しい合唱団設立である.ともかく理屈なしに自分たちが楽しめる合唱団をめざして練習を始めます.
夏までは月1〜2回の練習で、歌う喜び、楽しさを感じてもらいながら形作ってゆきます.夏ごろの段階で人が集まり意見がまとまったら暮にでもどこか小さなホールをとって演奏会を企画してゆこうと思っています.歌ってゆく曲の傾向もまだ決まっていません、とりあえずは僕のセンスで始めてみますがそれも参加者みんなの意見を聞いて決めてゆきます.
入団、参加の制限は一切ありませんが、男声合唱団をめざしますので残念ながら女性は無理です.何人集まるか、最初の練習はこの11日(水曜日)18:00〜21:00、サントリーホール裏の「榎坂スタジオ」(営団地下鉄溜池山王駅下車・港区赤坂1‐12‐12 Tel.03‐3585‐1313)から始まります.
どう化けるかわかりませんが、ずーっとすれ違いばかりだった合唱と、今回は添い遂げるつもりでやってゆきます.偶然この記事を読まれて興味が湧いた方はぜひ参加して、栄えある創設メンバーになってみませんか?
今、昨夜録画しておいたプレミアリーグ、チェルシーの優勝決定の試合を見た。
やった、F.ランパードが後半に2得点入れて、今季2冠め、50年ぶりのプレミアを制した。
ランパード、テリー、グジョンセン、J.コール、ドログバ、ダフ、ツェフ、みんなすごいよ! あとまだマケレレ、ジョンソン、フート、ロッベンもみんなすごい。
これで3日(もう明日の深夜?)のチャンピオンズリーグ準決勝のリバプール戦に勝てば、そのままミランも蹴飛ばして、モーリーニョが宣言したように本当に3冠、取ってしまうかもしれない。
いや、浮かれてはいられない、ともかくもこのリバプール戦に集中しないと!
なんかちょっと悪い予感がするんだよネ、今年ずーっと一点差で競り勝ってきたリバプールの調子は、ここのところのチェルシーとは反対に上り調子だし、最後になってあのジェラードに煮え湯を呑まされるような…! ブル、ブル、ブル...
いやいやそんなシナリオではないよ、僕の予想ではランパードと J.コールの2得点で絶対勝つ!
