今日は雨の中電車で出かけ、久しぶりの友人達に会いに鎌倉まで行ってきた.湘南には一度も電車では行った事がないので、前の晩に乗換案内で検索したら京王線から新宿で乗り換えると「湘南新宿ライン」で一本だと出た.この湘南新宿ラインというのも今回電車生活をするようになって初めて聞く路線なので楽しみにして出かけた.
朝、下の娘が大学に行くのと時間を合わせて一緒に家を出て京王線に.
切符を買おうとしたら、
娘>パスネットを買ったら?便利だよ.
父>(ん、まだ電車通勤が続く事だし)
言われるままに3000円のパスネットを買って、
父>(鎌倉までは幾らかな?)
券売機にもう一回そのカードを入れようとすると、
娘>パスネットはプリペイドカードだから改札に差し込むだけでいいの.
父>O.K.そうか、便利だな.
二人で電車に並んで乗って新宿に向う.
娘>それで、鎌倉へはどういう風にゆくの?
父>新宿から湘南新宿ラインで行くよ.早いらしいから.
娘>それじゃ乗換で切符を買い替えなくちゃ.
父>え?パスネットで鎌倉まで行けないの?
娘>パスネットは私鉄だけで、JRは別だよ.
父>でも3000円も買っちゃって、京王線しか使えないの?
娘>いや、他の私鉄でも使えるよ.
父>大学行く時はJRなんだけど.国分寺からの西武線は?立川のモノレールはダメかな?
娘>パスネットに書いてあるでしょう、見てみたら?
父>おお、あるある、西武線もモノレールも、絵が乗ってるよ.よかった、よかった.
新宿に着く.少し不安そうな娘にかまわず、
父>デパートでお土産を買ってから行くから、それじゃ.
娘>私は池袋だから、じゃあ気をつけてね…
10時に開店したばかりの京王デパートで、ちょうど旬のサクランボがあったのでそれを2つ買って、今度はJRの券売機で鎌倉まで890円を買い、改札に.
父>鎌倉までは何番線ですか?湘南なんとかラインって?
駅員>んーと...1,2番線に行って聞いて下さい.
京王線から乗り換えると1,2番線はコンコースの一番奥、人をかき分けかき分け、滑りやすい階段を上ってホームに.するといきなり頭の上から、
スピーカー)湘南新宿ラインは、路線上に障害物が見つかって、全線にわたって大幅に
スピーカー)遅れています.湘南方面お越しの方は12番線にお回りになり山手線にて
スピーカー)品川での乗換をお願いいたします.ピン、ポーン.
父>だって…さ!
仕方ないので今来た道を反対にコンコースの端から端まで戻り、品川方面行きの山手線に乗る.
父>(へー、ドアの上にTVが!お、CM、ニュース、天気予報まで出るよ!
父>お、その隣の路線図のデジタル表示も便利だね.でもこっちのドアが
父>開きますよっていう時のアニメーションはダサいなあ…ん?今は
父>ダサいなんて言わないのか?)
品川で乗換、コンコースの案内嬢に教えてもらい14番線の東海道線各駅停車にて鎌倉へ.
静岡から来るエヌ氏と鎌倉駅で待ち合わせのはずが僕の方が15分ほど遅れてしまったので、携帯で、
父>すいません、ちょっと遅れますので、先に行っててくれます?すぐに行きますから.
エヌ>ああ?車が混んでる?雨だからね.道も狭いし、鎌倉は.
父>いいえ、電車なんですよ.でも11時50分位には着きますからその辺で待っててくれます?
エヌ>わかった.11時50分に、Kさんの前の通りの駐車場でね.はーい.ツー….
父>もしもーし、あのー(電車って言ってるのに、僕だと電車と聞いても想像できないのかな?
父>まあいいか、僕が行かなきゃ、すぐそばだから、先にお邪魔してるだろう)
11時50分に鎌倉駅につきK氏ご夫妻宅へ歩き出しながら、
携帯で
父>あ、エヌさん?どこにいます、今駅に着きましたから…もし..
エヌ>小林さん?もうKさんとこに上がってますから.車、止められた?
父>えー、え、うん.……….
静岡のエヌさん、鎌倉のKさんご夫妻ともに長いお付き合いだが、マドンナ的な存在だったKさんの奥様の軽い認知症が始った5,6年前からお互いの行き来が減ってしまっていたのだが、昨年の今頃、やっとまた会えるようになって鎌倉を訪れた.今年はもう恒例化した雰囲気でアジサイのきれいなこの時期にまた集まった.マドンナを良い男たちが囲んで食事のようなお茶のような時間をただただ過ごすだけなのだが、全員にとってとても幸せを感じる時間になっているようだ.もちろん今回は僕が主役になって、長々と免許停止・スピード違反の話から始めざるを得なかったのだが.

1975年9月14日、オールデンブルグ国立劇場が新シーズンをオープンさせた。プレミエレ公演はワーグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」、僕は羊飼いの役で無難にドイツでのオペラデビューを果たした。しかしそれから一週間もしないで、今度は自分にとって大事な準主役としての、オベールの3幕オペラ「フラ・ディアボロ」の再上演のステージに臨んだ。
前年にも上演されているこの喜歌劇は、出演者全部にセリフがあり、他のメンバーは「あうんの呼吸」で歌い、演技している。そんな中で日本人の私とアメリカ人のソプラノ歌手、フラン・ルバーンが「Anfaenger」(新人)として頑張ろうとしていたから大変だった。
一ヶ月間は私と彼女だけの集中稽古だけだったので、二人は公演の5日ほど前に残りの出演者達に初めて通し稽古で会った。その通し稽古や最終のステージでの稽古でも、再演ということで慣れている彼らは、もらった台本どおりにセリフは話さないし、アドリブだらけである。セリフはころころ変わるし、僕等が歌いかけようとしてもそこには誰も居なかったり、誰がどの役かもわからない。なんという事だ、初日がせまっての最後2回ほどの稽古はこんな緊張でパニック寸前の状態で過ぎていった。
そしてついに初日。幕が空き、一生懸命歌った。緊張した出番も一区切りついたと思い、舞台袖で汗をかきながら深呼吸をしてほっとしたとき、自然に口からセリフが出てきて舞台上の音楽に合わせて歌っていた。舞台監督が飛んできた。「お前何やってるんだ!」。その瞬間、自分が歌うデュエットを舞台裏で歌っていたことに気付いた!
愛の二重唱を舞台で一人で歌っていた恋人役のフランの元へ、歌いながら登場し、なんとか終演した。この時の失敗はその後、日本に帰ってからも準備不足のオペラの本番前などにいつも夢に見るようになった。”罰金”をしっかり給料から引かれたのは言うまでもない。後にも先にも、これが最初で最後の大失敗だった。<続く>
縁あって先月からオープンした新しいITの就職転職サイト「キャパサイト」内に私の拙文のスペースを頂いている.その中の「就職相談Q&A」コーナーでは私がヨーロッパ時代にオペラ劇場への就職活動に奮闘した顛末を書いているが、その中に出てくる大事な背景として「1975年」と「オールデンブルグという町」について少し説明しておこうと思います.興味を持たれましたらそちらの記事も読んで頂けたら幸いです.なお現在のオールデンブルグは以下のような長い歴史をしっかりと留めながらも、美しい文化都市として劇場や大学などで外国からも沢山の人が訪れる町になっています.
*)キャパ・サイト:http://www.capasite.jp/
*)「小林一男の就職編」:http://blog.livedoor.jp/kazuo_kobayashi_job/
「1975年」
この頃のヨーロッパでは、今となっては「巨匠」と呼ばれる素晴らしい音楽家たちが華々しく活躍していた。この年の夏のザルツブルグ音楽祭では、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」が上演され、エリザベッタ役の当時40歳のミレッラ・フレーニとフィリッポ二世役の当時46歳のニコライ・ギャウロフが注目の的だった。フレーニは若い頃リリコ・レッジェーロだったが、次第にリリコ・スピントに変わりつつあった頃で、まさに彼女の絶世期だった。秋にはニューヨーク・メトロポリタン歌劇場のヨーロッパ引っ越し公演が行われ、ヴェルディの歌劇「オテッロ」がハンブルグで上演された。指揮者はジェイムズ・レヴァイン、主役のオテッロはプラシド・ドミンゴ。当時リリコとしてのレパートリーで活躍していたドミンゴがこのようなドラマティックな役を歌うのは初めてで、ヨーロッパ中が注目した。その「オテッロ」はその翌年、スカラ座の1976〜77シーズンのオープニングとして上演され、オテッロ役にドミンゴ、ヤーゴ役にピエロ・カップッチッリ、デズデーモナ役にフレーニ、演出はフランコ・ゼッフィレッリ、指揮はカルロス・クライバーと錚々たる顔ぶれが活躍した。
「オールデンブルグの歴史」
オールデンブルグはドイツの北西部にある文化都市である。この都市は、古くはオールデンブルグ公国であり、1345年に都市になって以来、豪華な劇場やコンサートホール、聖ランベルトを祭った素晴らしい教会、オールデンブルグ大公の住居だった17世紀の城が自慢だ。街にはかつて馬の売買がさかんに行われていた「馬市場」と呼ばれる地区がある。1931年5月5日、この「馬市場」でナチスの集会が行われ、茶色のシャツ、茶色のネクタイ、茶色の乗馬ズボンを身につけ、膝まで届きそうな黒いブーツを履いたアドルフ・ヒットラーが演説をしている。32年5月29日、投票者の48・8%がナチスに投票し、オールデンブルグはドイツ国内で正統な選挙で選ばれた最初のナチス指導者をいただくことになった。そんな街で32年3月、ベルグの歌劇「ヴォツェック」がベルリン初演の後、当地の劇場にて上演された。当然、ナチスの文化批評家には認められない内容だった。
【以上は、2004年11月号の「モーストリー・クラシック」誌上に掲載された「At That Time」(小林一男編:1975年・オールデンブルグ)から部分的に転載させていただきました】
またその他に、
*)「交響曲・不滅」:http://www.tenorcup.jp/d2/d202.html#05
ナチスとオールデンブルグと音楽…これらを結びつける衝撃的な本に出会い自分の過去を見つめ直すきっかけになりました.その辺の事をこちらからお読み下さい.
*)オールデンブルグ国立劇場HP:http://www.oldenburg.staatstheater.de/start.htm
なんと私が在席した当時にオーケストラでコントラバスを弾いていた日本人の牧野さんがまだ在席して元気なのを知りました.オーケストラにはさらに日本人が増えて数えてみたら5人も.写真を見ると、牧野さんも太られたし、きっと住み心地が良いのだろう.さっそくあの時以来の連絡をとってみようかと思う.
8月1日の仕事始めに備えて10日ほど前に、今度は大きなバッグを衣類と楽譜で一杯に膨らませて再度オールデンブルグの駅に降り立った。
劇場の事務局の紹介で同じ劇場で働く3人の日本人を紹介された。日本ではクラリネットで嘱望されたが、競争率の高い楽器ゆえにヨーロッパではなかなか職場が見付からず、結婚したドイツ人の奥さまの提案でクラリネットをビオラに持ち替えてここに職を得たO氏。東京のオーケストラでの長い職歴を全部捨てて、ドイツに新天地を求めて家族ごと移り住んで頑張るコントラバスのM氏、それにやはり東京でデビューした後、アメリカや他のドイツの劇場などを転々としてここにたどり着いた、まだ若い独身の男性バレーダンサーS氏。家庭が全部日本人で一番相談に乗ってもらえるという事でコントラバスのMさんにアパート探しから契約、それに細かい生活のことまで何から何まで全てお世話になった。
仕事を始めるにあたりまず一番問題だった「外国人就労ビザ」が事務局の手配でクリアになったという報告を受ける。これでめでたく僕の契約が効力を発することとなった。9月にオープンする新シーズンのプレミエーレ公演を始めとする出演演目の練習が始まった。この年の新入りの歌手の中に、僕と同じ「新人契約」としてドイツデビューをするアメリカ人のソプラノ歌手がいることを知った。アメリカで学校の教師をしていて夢を果たすためにオーディションを受けてドイツに渡ってきたという、スレンダーで長い金髪の美人で名前をフラン・ルバーンといった。ドイツ語は僕と良い勝負かもしれないと思うくらい喋れなかったのを憶えている。二人とも同じ演目でデビューするためほとんど毎日一緒だった。朝から二人揃ってドイツ語のセリフの稽古を受け、その後はコルペティと呼ばれるオペラの稽古ピアニストの元での音楽稽古。一緒にカンティーネで食事して午後は演出家の先生との立ち稽古、これもほとんどいつも二人だけだった。最初は彼女にたいして語学的に少し優越感を持っていた自分だったが、やがてすぐに自分のオリジンの言語体系の違いを身をもって知らされるようになった。彼女はアメリカから一度も外国に出たことがなくドイツ語は本当に初心者だったが、英語とドイツ語の親戚関係は強かった。僕が日を追ってもなかなか上達しないのに、彼女のドイツ語の上達は目を剥くほどの速さだった。この違いが後々の二人の将来に少なからず違いを生むようになってゆくのだが、東洋人としての大きな壁をはっきりとした形で感じはじめたのはよく憶えている。<続く>
始めたばかりの男声合唱団の練習も一昨夕で4回目になった。順調にと言いたいところだが、まだ気分よくハーモニーを楽しむだけの人数が集まらないのが残念なところだ。
しかし練習に借りているスタジオの響きがとてもいいのに助けられて、それなりに豊かな響きを感じながらの練習は非常に楽しい。今現在登録している人数は15名ほどで、練習に集まるのが6〜10名、時には4つのパートが成立しないときもあるがそれでも楽しい練習にはなる。
まずは体を使って大きい声を出すという事が文句なしにストレス解消になるし、大きい息を使う事で血が体中を巡り頭の廻りも良くなって食事もおいしくなる。
そんな素晴らしい合唱を楽しもうと思ったらとても簡単だ。まず自分の持っている声にあったパート(高い方からテノール、バリトン、バス)を選んでもらったら、曲のそのパートの歌(メロディー)をゆっくり教えてもらう。隣や前後には自分と同じパートの人が集まっているので、それにまざって少しずつ覚えてゆけばいい。自分は覚えきれなくてもパートとしてある程度覚えられたら、他のパートと一緒に歌ってみる。もちろん他のパートの人達は違う歌(メロディー)を歌うのだが、そんな違うパートの歌が4つの層に重なって一緒に歌うと、そこになんとも得も言えぬ響きの固まりハーモニーが出来上がるのだ。これが聞こえてきたらもう嵌まってしまう事間違いなしだ。
合唱のいいところは自分の声や歌の実力では到底表現できないような歌を本当に自分で歌った気分になれる事です。一人の声は小さくても同じパートをたくさんの仲間とともに歌う事により立派な歌となり、さらにはそんなパートが4つも集まりダイナミックな響きを作ってあたかも自分自身ですべて歌っているように聞こえてくるのだ。
人間の声の響きはどんな楽器よりも素晴らしいものだというのが合唱をやってみればわかるし、自分も世界に一つしかない声のストラディバリウスを持っているというすごい事に気づくに違いない。
そんな声の中でも、男性の声というのは本当に素晴らしい楽器なのです。
人体構成上かどうか知らないが、女性の声は出たそのままの声で響きが薄く一面的であるが、男性の声は非常に複雑な響きをたくさん内蔵したもので、深く、柔らかく、厚い素晴らしい響きを作り出してくるのです。だから男声合唱の曲というのは爾来複雑に凝り固まった曲は出来てこなかった。単純すぎてつまらないようなメロディーでも男声合唱にすると、すぐに歌いながら涙の出てきそうな名曲となって心をとらえるものになるのだから不思議です。
我が合唱団にも、いつでもどこでも仲間が集まったら歌えるような一番のレパートリー曲、つまり「団のテーマソング」みたいなものにしたい曲が見つかりそうなのです。
「シェナンドウ」という古いアメリカの曲だが、メロディーを聞いたら「ああ、聞いた事がある」と言い出すような懐かしいメロディです。これが男声で合唱にするといいんですよね。最初、メロディーをみんなで覚えて、その途中からちょっとだけパートを二つに分けて覚えてもらい、早々と一節だけハモってみたら、みんなの顔に何とも言えない笑顔が浮かんできて「いいね、この曲。たまんない!」と声が上がってきた。
いまこの「シェナンドウ」にみんな夢中で、英語の歌詞にも関わらず奮闘している。
そして昨夜の練習では、ついに最後まで音取りが進み、曲の最初から最後まで全部通して歌ってみたら歌えたのだ。やった、ついに新しい曲を一曲…、いや自分たちの歌を見つけたかもしれない。
練習後のパブではもちろん、新合唱団での新曲一曲制覇で乾杯した。
こんな楽しい男声合唱の仲間にあなたも入りませんか?
朝の散歩に変わって今週から一日中歩く事になった.車でそれこそどこにでも行っていた環境が電車・バスでのそれになっただけなのだが、いかに今まで歩かなかったかとてもよく分かった.
昨年の春先に車を入れ替えた際、仲良しの営業マンに進められるまま、ちょっと若者趣味のスポーツタイプにしたのが遠因であろうか、この一年ちょっとの間にスピードが出過ぎて警察のお目玉を食らう事3回にも及び、高い授業料(罰金)を払いながらの強制的通勤手段変更(めんてい)とは自分でも情けないのを通り越して、あきれ返ってしまい、かえって新しい環境を楽しんでいる.
負け惜しみ..?まあそうかも知れないですね.歩くってこういう事だったんだと再認識しながら調布市の自宅から立川の勤め先の大学へかばんを持って電車で週3、通勤しているが毎日が知らなかった事の発見の連続でびっくりしている.
例えば最寄りの京王線の駅から我が家までの距離.一年中取っ換え引っ換えいろいろな音楽学生や歌い手の方々がレッスンで我が家に来るのだが、今回初めて自分で駅からのその道を歩いてみてなんと約20分も掛かるのを発見した.今まで初めての人に電話で説明する時いつも「ちょっと歩きますが、10分位ですよ」なんて無責任に言ってたし、大学の受験生などはその道を一年近く毎週のように通ってきていたわけで、時には虫の居所が悪かったり、よほど生徒が勉強してこなかった時などは、怒り狂って10分もレッスンしないで「帰れ!」と平気で追い返したりしてましたから、何と言おうか…..今ごろになって妙に「みんな偉いもんだな」なんて自分を棚において感心したりしています.(ごめん!)
電車通勤を楽しんでいます….と書いたが、まんざら嘘でもない.なにせ最後に通勤電車に乗ったのはいつか思い出せないくらいですから、電車の中や駅などが「えー、こんなに快適なんだ」と感じるし、乗り換えなども以前に憶えていた不便さなどはどこにもなくて、なんかはじめて電車に乗って遠出する小学生の頃のような気分なのです.
びっくりしたのは立川の駅前、学生の頃はゴミゴミした駅からバスで渋滞の中を30分も掛かって大学まで通っていたのが、今は大きなビルが林立してその間の高い空間を気持ち良さそうに縫うように走っているモノレールに乗り換える時の景色などは、一昔前のSF小説に出てくる近未来都市にいるようで現実感がなくてすごく新鮮です.
いつまでこんな気持ちで通えるか分からないがとりあえずは一ヶ月ほどはこの状態は続くのだから頑張るしかない.ただ今は梅雨の時期なので、雨の中をバスに並んだり、炎天下で長く歩いたりするのが耐えられるかどうかわからない.そんな時になるべくタクシーを拾わないで済むようにするには、運転免許を持っている女房と大学生の娘の機嫌を損なわないように気を使うのも必要か?
やっと掴んだオールデンブルグ国立劇場との専属オペラ歌手の契約書を持ってミラノに帰ってきた.歌の先生に報告すると「Kazuoが地の果てのように遠くて行き来の簡単にできない日本に帰ってしまうよりは、あまり好きではないがドイツだったらイタリアと地続きなんだから何かあったらいつでも帰ってこれるから、ともかくよかった」と喜んでくれた.「それどころか歌い手としてちゃんと給料をもらえるんだから、声の調子が悪くなったらすぐ飛行機で帰ってきますよ」とちょっと偉そうに答えたのを憶えているが、その後ドイツで生活し始めてからすぐに現実の厳しさを味わう事にはなった.ドイツの殆どの劇場では当時、イタリア・オペラもフランス・オペラも全てドイツ語で上演されていた.8月までの一ヶ月半の間、私に与えられた大きな課題はドイツ語の習得だった.もちろんイタリア語とともに音楽には必須なので大学時代にそれなりには勉強してあった.しかしイタリアで生活をし始めてから僕の頭脳の語学関連の部位は、中途半端な英語やドイツ語の部分を消去してイタリア語が詰め込まれ始めていた.ドイツ語なんて簡単な会話ですらとても使えるような状態ではなかった.すぐにドイツに移って現地で学び出せば良かったのだが、第二の故郷のように好きな町を離れがたく、ミラノでドイツ語を勉強する事にした.すぐ仕事で使う為に非常に集中して勉強するので、やはり一番は個人指導の語学学校という事で日本でも有名な「ベルリッツ」に申し込んだ.そして初めてのレッスンの日、その個人指導のドイツ人に会ってみると、なんとこの女性が、僕と同じ門下、つまりカルボーネ先生のところで一緒に歌を勉強しているドイツ人のソプラノだったのでびっくり.彼女はアルバイトでドイツ語を教えていたのだ.良い人を見つけたので、もちろん払ったお金は返してもらえないのだが、ベルリッツには内緒で個別の特訓を安く沢山してもらった.さぞかし上達して8月からの劇場での練習では不自由なかった…と言いたいところだが、実際のところその時はさっぱり身に付かなかった.今考えてみると、ドイツ語を教えてもらうのだが、説明などは全部イタリア語だった.もちろんミラノのベルリッツなんだから当然なのだが、個人指導の同僚ソプラノのイタリア語は私より下手で、彼女としては習得途中のイタリア語を駆使して説明しようとするので、イタリア語の会話に優越感を持つ僕もついついイタリア語が多くなるという状況が作られてしまい、後々の実感として、この期間にドイツ語ではなく、逆に僕のイタリア語が飛躍的に上達してしまったという結果になっていたのだ.そんなドタバタ状況でのドイツでの劇場デビューの時のはなしは、<続く>
寮生活をしている長女が一昨日から休みで帰っていて今日の夕方また帰っていった。昨日は一日中友達とドライブとかいって深夜に帰ってきた。話を聞くとホタルを見てきたという。もうホタルが見れるんですね?
感覚的には真夏の頃かなと思っていたけど今頃からもう飛び始めるのかもしれない。
ホタルって僕等が少年だった頃、つまり昭和の30年代にはまだちょっと川の近くに行くといっぱい見れたけど、その後ずっと田舎を離れたりしてすっかり忘れてしまっていた。また今は本当に限られたところにしか残ってないとか、絶滅に近いとか言われて、夏に山や田舎に行ってもほとんど見ることもできないし、気持ちの中でもあきらめているせいもあっていつ頃からか、ホタルの習性だとか、いつ頃飛び始めるとかいった細かい事もすっかり忘れちゃってる。昔はトンボだとか、セミだとか夏の虫とか生物なんかに関しては非常に詳しくて自信を持っていたのに、今回のホタルの話を聞いて少しそんな面でショックを受けた。
でもホタルの飛び交う光景や、夏の夕方や夜の、あの昼の暑さから開放された涼しい情景っていうのは、いくつになっても帰って行きたい一番の情景で本当に懐かしいな。
たしか長女が行ってきたのは伊豆の方だと言っていたので、詳しい情報をもらって女房と次女と3人で行ってみようと思う。
それから始めたばかりの長女のブログにその時のホタルの写真を載せてもらうよう頼んだ。
ピアニストにお礼を言って、続いて劇場支配人室に呼ばれる.ハリー・ニーマン氏は芝居の演出家もするが、劇場支配人としてのキャリアは長いらしく、日本人歌手と仕事をするのは2人目ですよとおっしゃった.聞いてみると初めて劇場支配人として赴任した先の劇場に一人、日本人のバリトン歌手がいて、今でも憶えているが素晴らしい歌い手だったと言う.日本人のアーティストに偏見を持っていないと知って安心した.テーブルの上に秘書の方が作った契約書が差し出され名前の横に「イタリアン・リリック・テノール」と書いてあった.昨日までとのあまりの変化に僕はどこにいて何が起こっているのかしばらく理解できなかったが「ヨーロッパで日本人がイタリア歌手として契約を取った」事は確かだった.「1、あなたは他の国ではともかくここドイツの劇場においては初めての仕事であるから「初心者契約」(Anfaenger)になり、初任給はすべて含んで1,500マルク、2年契約とする」、当時の日本円に換算すると約11〜12 万円ほどだったと思う.「2、今年の出演演目は、プレミエ公演のワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の羊飼いの役、ロルツィング「皇帝と船大工」の第1テノール、プッチーニ「外套」の第2テノール、「ジャンニ・スキッキ」は第1テノールのリヌッチォ役..その他…但し、当劇場はすべてドイツ語での上演です」.大丈夫です、今からしっかり勉強しますから…と云おうとしたら「最後に補足条項として、上記契約をつつがなく遂行する為に必要なドイツ語を8月1日の練習開始日までにマスターしてくる事」と読み上げられた.秘書の方の指の示すままに4,5個所にサインをし、ニーマン氏と8月の再会を約束し、かたい握手をして部屋を出る.後で一つ一つ考えてみると沢山の問題があったのだが、ともかくもその瞬間は「ああ、これでヨーロッパに留まれる、日本に帰らないで済む」という感慨が一挙に沸き上がってきたのを思い出す.さらには事務室に連れていかれ細かい専属契約歌手としてのいろいろな説明を受ける.健康保険や諸々の書類作りからドイツの劇場ユニオンへの加入、さらにはこの町で生活する為の部屋を探す事など、すべてこの短い期間にしなくてはならない事を指示され何枚もの書類にサインした.最後にミラノの住所を書き伝えて出かけようとすると、支配人室でも説明を受けたが、外国人就労ビザの問題をもう一度念を押された.外国人の就業者がとても多いドイツは、州や市、町単位で外国人就業者の数が決まっていて、そこに空きができなければ就労できないし、すべての契約もキャンセルされるというものである.当時このニーダーザクセン州では外国人の新規登録の空きが無い状況だと説明を受けた.「ただ、「国立」の劇場であるこの劇場が文化行政上重要なものであるため、ここからの申請は多分優遇されるので大丈夫だと思いますが、万が一という事もありますから」という事だった.しかしこれは僕が頑張ってもどうにもならない問題なので劇場側に頑張ってもらうしかない.事務局長にお礼を言いやはり再会を約束して劇場裏手の楽屋口から外に出ると、そこには青々とした緑に包まれて中世風な小さなお城の形の建物と池の水が夢の中の情景のように広がっていた.というわけで沢山の不安を胸に一大決心をしてミラノからドイツに来てみた、そして一晩明けてみたら僕は西ドイツ・オールデングルグ国立劇場の専属歌手として契約していた.<続く>
ミラノを出て2日目、フランクフルトからいきなりの夜行列車で着いた先はオールデンブルグ(Oldenburg)というドイツの北西の端の小さな町だった.
人気の無い深夜の駅舎を出てすぐのところにあるホテルにチェックイン、不安の中で悶々とした一夜を過ごす.
朝になってほとんどお客のいないホテルのレストランで朝食をすませ、さっそく劇場の場所を教えてもらって出かける.オーディションを前にしてあまり周りのよく見える状態ではなかったが今でも憶えているのは、小さいがとても小奇麗な街で、石畳と町並みの壁がとても清潔そうだった.
教えられた通りの道を行き街の中心を抜けると信号にぶつかりその先にはこんもりとした緑が広がっていた.中世風なお城のような建物が2,3点在し、美しい池の水と緑ががそれらを囲んでいた.
その中の一番大きくて真っ白なお城のような建物が劇場だと教えられてびっくり.「オールデンブルグ国立劇場」( Oldengurgishes StaatsTheater)といって町や市、州立でもなく国立の劇場なのだ.
後で知った事だがこのオールデンブルグという街は古くはあのトルストイの「戦争と平和」にも出てくるほどの有名な「侯国」、つまり君主がいた一つの国であって、劇場はその頃の君主の舘、まさにお城だったのだ.その後ずーっと後になってドイツに統合されて「ニーダーザクセン」州の主要な街となっていた.
劇場自身もしっかりした歴史を持っていて、現代オペラの初演がたくさん行われた場所として有名で、特にドイツの現代作曲家H.W.ヘンツェの有名なオペラの殆どはここで作られている.
そんな事とは知らない僕は、決められた時間の少し前に劇場のオフィスに着いた.小さな部屋を与えられそこで発声練習をしていると、ここで副指揮者をしていて、劇場で唯一イタリア語が話せるというイギリス人のピアニストが、僕の伴奏をしてくれるという事で顔を出してくれ打ち合せをする.まもなくして舞台に呼ばれて出てゆく.
舞台から客席を見るという機会は普通の人にはない事だろうが僕らにとってはこのアングルこそが劇場なのだが、出ていって目に飛び込んできたのは息を飲むような華麗な色彩だった.まさに先ほどの話ではないが、中世の君主の館の客間にでも通されたようなきらびやかさがあった.
しかし僕の知っている劇場に比べてなんと小さな空間だろうか.舞台の一番前を端から端まで歩いても15か20歩位しかないような、かわいい劇場だった.その舞台の前にはしっかりとオーケストラピット(オーケストラ用の穴)があり、舞台中央に立った僕のすぐ前にはプロンプターボックス(舞台上に空いた穴から顔を出して、指揮をしたり、セリフを叫んでくれたりする人の穴)までちゃんと備わっていた.
客席中央辺りに劇場支配人とその秘書らしき人、あとは他の指揮者とかの音楽スタッフなどが散らばって座っていた.オーディションの雰囲気は非常に和やかで、音楽監督がOKを出しているのだからという感じでお客様扱いで儀礼的に3曲ほど歌わせてもらった.<続く>
