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ブログ倉庫1(2005/4-2014/10)

毎年恒例の大学の教室の合宿は今年も山中湖で8月5日〜7日に行われる。
最初は自分の山小屋中心に小淵沢でやっていた時期もあったが、親しいペンションと歌の練習に最適なスタジオ風な別荘を見つけてその後は富士山麓の河口湖で何年かやっていた。
しかし3年前、大学に入学してきたばかりのバリトンの学生の実家が山中湖でペンションをやっている事がわかり渡りに船ということではないが、さっそくその年からテニスやサッカー、ブラスバンドなど大学の体育会系の合宿のメッカ、山中湖は平野のペンションで合宿するようになった。最初の年、ブラスバンドや、コーラス、オーケストラなども使っていてスタジオもあるということで勇んで出かけていったのだが、いやはや大学生の合宿というのは朝から夜遅くまで練習、練習ばかりなのだ。我々も大学生の合宿であるが、歌の練習や、オペラの練習では朝から夜までなどできないので午前と午後、それに夕方少しという練習をする。しかし練習と練習の合間や、食事時やその前後などもかまわずに、ペンションの内から外から、そこらじゅうから、ひっきりなしにブラスバンドの分奏や、コーラスのパート練習などの音の洪水には、耳の休まりる暇などなくまさに発狂しそうになってしまった。
それで次の年からその辺をお願いしてスケジュール調整してもらったり、泊まるところを分けてもらったりして、今では非常に快適な合宿ができる様になっている。
合宿では一人一人の歌を見ることもだが、それよりもこういう時しかできないので実際に演技を入れたオペラの場面を作り上げるのを大きなテーマにしてやっている。元は有名な写真家のスタジオだったピアノの入った広い空間が、幸い朝からずっと使えるので、そこでオペラのステージを想定して「愛の二重唱」や「決闘の3重唱」、「夜会の場面」や「惜別の場面」などを手取り足取りレッスンしている。
この合宿での成果がきっかけになって秋からの発表会や試験などに向かって急激に成長して行く学生が多く出る。学生達も上達する大切なチャンスだと思っていて7月に入る前から与えられた曲の練習に入り、合宿の直前まで各々チームを組んで歌に演技にと夢中になって勉強してくれる。
歌は難しい。直立の姿勢で、朗々と情感たっぷりに、感性豊かな表現をするのは、技術面だけでは教え切れない。極論すれば少しのしっかりした基礎のテクニックと、後はその人の人間的な成熟、成長を待つしかないという見方も出来る。ただ他の楽器などの演奏技術に比べて歌が大きなアドバンテージを持っているのは、歌だけには「言葉」が付いているという事だ。「具体的な意味のある」言葉が付いている楽器と言ったらいいだろうか。
本来だと声を楽器に作りあげてゆくという技術の繰りかえしが中心になる若い大学生の年代の音楽技術の修行は、今のような自由・多様化の時代ではほとんどががまん出来なくて正常な進歩が出来ずにどうかなってしまうのであるが、その言葉の持つ「具体的な」ものをオペラなどの中の具象的な動きやドラマを通して、感情を伴ったよりストレートな形で表現させようとすることで、一気に声を出す技術と、感情を表現すると言う感性が、劇的に何人かの学生の中で繋がってゆくのだ。今年も何人がそうやって目覚めて「歌い手」になってゆくのだろうか楽しみだ。
ピアノの横に座って一日6〜8時間位のマラソンレッスンの合間には、富士山ミニ登山、早朝ハイキング、バーベキュー、花火大会、魚釣りなどもやるのだから先生も大変なのだ。体力の8月!

そんな単調な生活の中で心が踊るのはミラノへの帰省だった.ミラノを出てくる時に「オペラ歌手として給料をもらえるから、毎月一回ぐらいは飛行機で帰ってきますよ」と恩師カルボーネ女史の前で切った啖呵を遂行するのはとても無理な話だった.オペラも練習期間が終わって初日を迎えてしまえば後は公演の日に体調を合わせて歌って行くだけであるから、スケジュール的には充分時間が取れた.しかし先立つものの計算が甘かった.給料は初年度が1,500 DM(ドイツマルク)、当時で12、3万円ぐらいの換算だっただろうか.しかし音楽ユニオン費、失業保険等の諸費が引かれて実質8〜9万円というところだった.北ドイツは生活費が高くイタリアで思い描いていた暮らしをしようとすると最初から無理だった.アパート代、借りピアノ代、食料品、交通費等すべて高かった.そんな状況でとてもイタリア帰省の費用が出るはずはなかったのだがどうしても帰りたかった僕は、もらい始めて3ヶ月目に早くも給料の前借りを事務局に願い出て、なかば強引にミラノの空気を吸いに戻った.ホームシックも少なからずあったが口実もちゃんとあった.生活の環境も変わり仕事の歌も全部ドイツ語になったので喉と歌の調子を崩していたのと、ある一つの重要なオーディションを翌月に控えてボイストレーニングをしなくてはならないというものであった.
飛行機はあっさりあきらめて、ドイツを北から南に縦断してスイスを経由してミラノまで行く夜行列車を使って帰る事にした.夜の9時に隣のブレーメン駅を出て、ドイツを縦断しスイスを越えてミラノ中央駅着が翌日の昼2時過ぎという列車で、当時、日本とヨーロッパの直通便が引かれたばかりで、情報だとパリから東京まで17時間で着いてしまうという事を聞いていたが、ちょうどそれと同じ時間がかかったというのを憶えている.カルボーネ先生と2,3の友人、それにお世話になるペンションへのお土産をバッグに詰めて10月中旬、初めてミラノ帰省の夜行列車に乗った.10月になると北ドイツは昼が極端に短くなって3時過ぎにはもう暗くなってくる.つい5ヶ月ほど前、反対向きの夜の列車でオールデンブルグに向っていた時は誰も人間の住んでいない地球の果てまで連れて行かれるような不安で一杯だった事を思い出し、自分の好きな人たちの住んでいる自分の故郷に帰るうれしさで心の躍る今回の帰省との違いを感じながら眠れずに目が光っていたのを思い出す.<続く>

名前が決まらない名無しの男声合唱団、とりあえず「NANASHI」としておく.8/21(日)〜23(火)の日程で八ケ岳合宿が決まった.早朝から深夜まで歌いっぱなし…というガンバリ系の合宿ではなく、涼しいところで合唱を中心にだが、ゆっくりと美味しいものを食べたり、水に、山に遊んだりしようという計画だ.
初日は夕方、八ケ岳は小淵沢に集合し小さな我が山小屋にて合唱練習、その後全員揃って夕食、泊まりは近くの親しいペンション.
2日目は遊びから、午前中にゴルフorテニスor乗馬または尾白川渓谷ハイキングなどをして遅い昼食.その後清里に移動し、清里の森音楽堂のステージを借りての合唱のメイン練習会を暗くなるまで.そしてペンションに戻ってのバーベキュー・パーティで飲み食べる.満点の星空の下でエンドレスな夜になるでしょう.
最後の3日目はゆっくり起きて帰りの仕度.前日の遊びの続きを頑張る組や.帰りがけに勝沼のワインの里を訪問の組など.三々五々帰路につく.暑い暑い東京を離れて、親しい仲間との涼しいミニ・バカンス.この夏の一番の楽しみだ.
今からでも参加希望の方は受け付けます.合唱の経験不問、初心者大歓迎します.

僕はイタリアに留学しイタリア音楽を学びイタリアでの成功を夢見ていた.そんな僕にとってアルプスを越えてドイツ、オーストリアに職を求めに行くのはまさに「都落ち」であった.留学して早々に襲ったオイルショックからの経済不況下のイタリア事情や、個人的にも留学資金が底をつきイタリアどころかヨーロッパにとどまる事さえ難しくなってきた状況で、僕はドイツに職を求め1975年から77年までの2年間、オペラ歌手としてオールデンブルグの町に生活した.
初めての印象はとても美しい町だった.働く事になった国立劇場も美しく、昔のオールデンブルグ侯爵のお城の敷地内の、これまた美しい池の傍に立つ真っ白な劇場だった.町自身もこじんまりとしていてとても清潔感の漂う町並みで、お金のない貧乏歌手はよく町中を散歩した.「交響曲・不滅」の本の中にも町の写真が出てくるが、主人公達の家族が洋服屋を営んでいた小さな広場に面した一角もよく通ったし、彼らが町を捨てる事になるきっかけとなったナチス・ヒットラー達が集会をしたという馬市場(Pferde Markt)もよく散歩した.昔はこの馬市場が町の中心産業で、よく「ここは馬市場だからここの女性もお尻がとても大きいんだ…」と町の人達から聞いた.
僕は町の中から郊外、そこら中を歩いた.でも僕にはどこがどうだったか細かい記憶がほとんど残っていない.自分が歌うべきイタリアの地から離れてしまい、劇場のレベルのわからないような小さな町から、どうはい上がったらいいのかわからないまま悩んでいた.不安を取り除く為せまい部屋から外に出て何でもいいから歩いていた.失意の自分の心の中ばかり見ながらほとんど上を向かなかったのだろう本当に町の景色を記憶に残していない.
北ドイツにはとてもしっかりした個人主義が発達していて我々のような異邦人を受け入れてくれるのはほんの一握りの人たちだった.さらにこちらが独身の若い男となるとまずは家庭単位で受け入れてくれなかった.そんなわけで友人も少なく世界中から取り残されたような気持ちで毎日の生活をしていたような気がする.北杜夫の「フランドルの冬」に出てくる主人公さながら、寒い雪の町外れで宿を探して歩く自分の姿をなんども夢に見、自分の境遇に重ね合わせていた.<続く>

我家の今夏の大ヒットは竹シーツ。今まで何となく夏になると名前だけは聞いていたがうちの奥さんが今年、東急のカタログで安いのを見つけて買い求めた。
夏の夜の寝苦しさはクーラーの使いかたをどう工夫しても今一で、寝始める頃と、朝の起きる前、酷いときには寝入ってから蒸し暑さや寝汗でまた起きてしまう…と惨々なのだが、なんとなんとこの竹シーツはそんな悩みを本当に一発で解決してしまう優れもので、感動しています。
ちょっと大きいマージャン牌位に切った孟宗竹をシーツ状に敷き詰め、テグスなどで繋いだもので、ベッドの上や、敷布団の上、またはそのまま直に床の上に敷いて使う。家ではベッドのアンダーシーツの上に広げて寝る。ともかく肌を直接乗せてベトつかないし、竹のひんやりとした感触は良いし、竹が熱を蓄えないので、寝返りを打っても肌に触る部分がいつも涼しい。むかし真夏の学校での合宿、熱帯夜の寝苦しさに飛び出して、窓を空け放って寝た廊下の床のひんやりした涼しさを思い出す。
とにかくこれは最高。快眠保証。

効能やポイントはこのページがわかりやすい:http://www3.ocn.ne.jp/~futonya/take.htm

吉田氏の会社マークスの第10回コンペに参加した。土浦カントリーC、朝7時半のスタートという事で、成田に前泊したのはもう話した。
久し振りのゴルフにあまりというかほとんど期待はしていなかった。今年はラウンド数も極端に少なくて、打ち込みはしていないし、また雨男と長年言われた男がこの梅雨の真っ盛りに行くのだから雨はしっかり保証されていたようなもので、実際に前日も雨、当日の天気予報も雨。何を期待しろというのか、早朝の気持ちの良い空気と、空港近くの青々しい畑の連なりの壮快なビュー。今日はこの朝の爽快感だけで良し…と欲のまったくないままゴルフをした。案の定、スタートからつまずく。一番のティーショットは最初の組、マークスの生きの良い若手達が見守る中で、吉田氏とまずまずのドライバー。フェアウェーから残り、 100ヤード。砲台グリーンの正面に大きなバンカーが口を開いている。素振りもしないでスタートしたせいで、ピッチングかウエッジか迷ってしまった。普段ならちょうどウエッジで気持ちよく振れる距離だが、まだ体も暖まっていないからピッチングがいいか?などと迷った末に、結局はウエッジを持って、気持ちよく振り抜けたと思ったのだがバンカーに入れてしまった。朝一のバンカーくらい嫌なものはない。あっというまに「うちのバンカーは砂が重くて薄いから難しいんですよ」というキャディーさんの声を聞きながらグリーン奥にホームランしてしまったボールを探しに走っていた。結局一番は寄せ切れずダブルボギーでの発進。やってない弱みかその後も、バンカーからのホームランが影響してグリーンを狙うショットが腕が縮んでスコアにならない。ドライバーは悪くないのだが上がってみたら47回も叩いて、スクラッチで握っている吉田氏に5つもおいていかれた。
10時すぎにハーフを上がってみるとまだスタート前のプレーヤー達がたくさん練習グリーンにいる。悪い予想通り折り返しのスタートまで1時間半もできてしまった。レストランではもうパーティー状態になってしまい、ビールだけのつもりがワインや酎ハイが前に並んでしまった。
しかしゴルフはわからないものだ。もうそんな状態でゴルフどころではなくスタートした後半の出だしはロングホール。ドライバー、スプーンでグリーン直前まで運び、ウッジでコツンと打ったら、もうひと転がりであわやイーグルというOKバーディーのスタートになった。アスリートゴルファーを目指しているつもりなのだが、やっぱり典型的な酒呑みアマチュアゴルファーだとわかった。そのくらい酒の効いた後半はすごかった。バーディを皮切りに4連続パー、ドラコンホールではキャディーさん曰く「絶対に誰も抜けないよ、300ヤードはいってますよ!」という当たり。その後ボギーを1つ打つも7ホール終わってなんとパープレー! 俄然色気が出てきて「久し振りの30台は確実。生涯3度目のハーフ、36が出るかも」と色気を出してしまったのが敗因だった。
午前中5ダウンで挽回不可能かとあきらめていた吉田氏との勝負も逆転で一歩リードした状態で迎えた8番にあまりうれしくないドラマが待っていた。フェアウェー前方左側120〜180ヤード位に渡って池があり、その先がブーメランのように左にフェアウェイがカーブしている。正面真っ直に打つと220ヤード位でフェアウェーを突き抜けて林の中という。少し待たされている間に、今日好調なドライバーでフック気味にしっかり打とうとしていた気分から、「奥の林が嫌だからスプーンかな、クリークの方が自信はあるけど風はアゲインスだからな」と迷いだし、結局は一番信頼感のないスプーンで中途半端に打ったら見事なテンプラで、考えてもいなかった池の中に…。今考えればそれも自分の実力のうちではあったのだ。キャディーさんから「前進4打でいきましょう」と言われて「ダボで上がって、最終ホールパーでも38か、でも前進4打で救済されての38なんてつまらないなあ」と急にテンションが下がってしまった。本当はそこで「いや、すみませんがここから第3打を打ち直させて下さい」と言って粘らなくてはならなかったのだ。それを早々とあきらめてしまい、その後を投げ出してしまったから、今になって悔やんでいる。
詰めの甘さとタイトルには書いたが、そうではなくて気の弱さだ。最近、いろんなことから潔くすぐに手を引いたり、諦めたりするのだが、なんか逃げているような感情がいつも残ってしまい、自己不信の元凶になっているのは認識していたのだが、こうもはっきりとゴルフで出てしまうとかえってしっかり向き合ういいチャンスだと思える。もうちょっといろんな事に執着心を持って、すこしは泥くさくても粘ってみようという気になってきた。
で、結局後半はいくつ叩いたかって? 8番トリプル、9番もトリプルで6オーバーは42のいつもの数字になってしまいました。トホホ! 優勝はベスグロで吉田氏で、賞品から社員各位との握りまですべてかっさらっていってしまったのだが、僕との握りだけはなぜか僕が勝って、唯一吉田氏から頂いたのだ。
よし、この夏からは、粘っこくいくぞ、格好わるくても投げ出さないぞ!

僕のすすめで長女が最近ブログをはじめた: sari sari
成田市内の寮生活で、朝5時に出勤し空港第1ターミナルのJALカウンターにいるのだが、最近は系列のシンガポール航空に手伝いに出ているようだ。そこの外国人スタッフ達と仲良くなって、ラウンジで豪勢なお茶会をして盛り上がっている話しは聞いていたが、今は七夕にあわせて笹の飾り付けをしてみんなでゆかたを着てサービスしているらしい。遠いのに時間が空くとよく我が家に帰ってきては愚痴をこぼして、すぐにでも辞めたい様なことを言い、親としてはハラハラして見守っているのだが、こうやって屈託のない笑顔で仕事をしている様子をみるとほっとする。たしかに成田の寮での生活は厳しそうで、ずーっと親元から離れたことのない東京っ子にとっては何もない離れ小島に流されたような気分であろうし、若いうちにもっとやってみたいこともたくさんあって焦燥感にとらわれるだろう事もわかるような気がするが、もともと好きで希望していたところで今仕事をしているのだから、寂しさはもうちょっと我慢して頑張って欲しいと思う。そんな願いを成田の短冊に書き込みに行きたいのはただの親バカであろうか。