という訳で(…?)、八ヶ岳の合宿から帰ってきたらいきなりこれです。もう見ましたか?
六本木の元防衛庁跡地脇『東京ミッドタウン』開発地の一番目立つ空間に出現した
「キャパサイト」の巨大な広告看板です。
なんとそこに「小林一男先生もキャパサイト」と私の名前も入っているのです。
キャパサイトも小林一男もみんな知らない、だから見た人はみんなまず首をかしげて「キャパサイトって?小林一男って?」と?マークばかりになって、次には隣の人に「知ってる?」と聞いたり、ネットで検索したりするでしょう。見た人がみんな?マークだらけになる事で、キャパサイトの宣伝目的はほとんど達成されるというのが仕掛け人というか、キャパサイトの立ち上げ人であるY氏の考え。
あまりの面白い発想に二つ返事でOKを出してしまったのだが、こうやって現実に、空を覆いつくすばかりの大きな文字の自分の名前が目にとびこんで来るのに遭遇してみると、なんだか急に頭がクラクラ、心臓はバクバクしはじめ、妙なあぶら汗が体中から出るのが感じられ、わけもなく周りを見回してしまいました。
でも落ち着いてよく見ると実に壮大な看板ですね。きっと、夜見るとまわりのごちゃごちゃが黒い闇に沈み込み、看板だけが浮き上がって、もっともっと空に浮かんでいるという雰囲気になるのだろうと思う。
ぜひ、夜になったらもう一度見に行ってみようと思うが、何となくこれから六本木では酔っ払えそうにないのが残念ではある。

次の日、ホテルで声を出してから劇場の通用門をくぐる.観客のいない真っ暗な客席に入ると、明るく浮き上がった舞台の上ではまだオペラのリハーサルが続いていた.
少しづつその場の状況に目が慣れてみると、舞台上にはセータを羽織ったドミンゴが立っていた.オーケストラピットの中のあのアフロヘアと特徴的な話し声はレヴァインだ.そして舞台には有名なヴェルディのオペラ「オテッロ」の第2幕が飾られていた.巨大な岩山の隠れ家のようなイメージの舞台装置の上で、ドミンゴと他の歌手達が殆ど声をセーブしながら動きの確認をしている.オーディションの事も忘れて10分ぐらいだろうか、僕はすっかり観客になっていた.
練習が終わり誰もいなくなった舞台を眺めている自分に、少しして暗やみの後ろからマエストロの声が言った.「やるづらいかも知れないが、あの舞台の上で歌ってみて下さい」.「えー、ドミンゴのいたあのオテッロの舞台の上で歌えるの?やったーー!」なんて今では叫ぶでしょうが、当時はそんな事はどうでもよくていきなり緊張したのを憶えている.特に自分が本調子でないことが緊張に拍車をかけた.
客席には4人いた.マエストロ・パタネ、ドクター・エヴァーディング、マエストロ・レヴァイン、それに多分劇場関係であろう知らない人.僕はその年いろいろなオーディションなどで歌っていた得意の曲を中心に並べた.最初にモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」のアリア”私の大事な恋人”を歌い、次にヴェローナでマエストロに褒められたロッシーニ「ウイリアム・テル」のアリア”ああ、懐かしき隠れ家よ”を無事にミス無く歌えた.
ただ3曲目に実は自信が今一つないドニゼッティ「愛の妙薬」のアリア”人知れぬ涙”を入れていた.この曲はなぜ難しいかというと、テノールの中の一番軽いレッジェーロという声の種類の代表的な名曲なのだが、僕の声がそのレッジェーロから比べてほんの少し重みのある声なので、その微妙なコントロールが僕にとってはとても難しいのだ.だったらそんな曲を無理して歌わなければと思うのだが、なかなかその頃の僕の声にちょうど合う「ドイツでも有名な」曲はあまりなかったのだ.僕のその頃の声で、ヴェルディやプッチーニを歌うのは、東洋人という事もあって舞台的に想像できない分、現実的ではなかった.結論的に言えば、自分がマスターしきっていない曲を、いろいろな事情があるとは言え、大事なオーディションで歌わなくてはならない状況に追い込まれていたという事であった.
実際の歌唱では、はっきりわかるようなミスや失敗はしなかったが、声のコントロールに集中せざるを得なかった分、表情や歌の全体の流れが不自然になって、聞く方にとってかなりつまらない歌に聞こえたであろうという感覚がはっきり残った.超有名な曲をつまらなく歌ってしまってはとりあえずノーチャンスである.自分自身ちょっと悔いの残るオーディションになってしまった.3人のマエストロに丁寧にお礼を言って劇場を後にする.
オールデンブルグに帰る電車の中で、ミラノでの最後のレッスンの時にカルボーネ先生が涙を流しながら言ってくれた言葉がずっと響いていた.「カズオ、私があと10年若かったら世界中どこまででもおまえに付いて行って聞いていてあげられるのに.そうしたらお前はパリでだろうと、ニューヨークでだろうと自信満々で名声を築けるのに..」<続く>
女子プロゴルフ応援を予戦ラウンドで打ちきって土曜日の夜遅く、軽井沢の友人邸から女房と二人で小淵沢の山荘に。
一週間後に合唱団の合宿があり、我が古き山荘も練習に使うことになり、10数名の仲間が来ることになった。夜暗くなってからだと闇に紛れて誤魔化せるが、夕方明るいうちからの練習なので、すこしきれいにしておかなくてはならない。中の床は昨年張り替えたので残る問題は2つ。枯葉と雑草にまみれた前庭の掃除と、玄関のベランダを綺麗にすることだ。
朝とりあえず一人で始めてみるがとても出来そうにないとわかったので助っ人を探すことにする。
実は大月市内に住むすぐ上の姉がどういうわけかまだこの山荘に来たことが無いというので、今回遊びに来るように誘ってあった。彼女の旦那が手伝ってくれるだろうと思って電話で約束を確かめてみると、なんと旦那だけ用事ができてしまい姉が一人で来ると言う。しかし兄弟が多いというのはこういうときに便利である。姉一人じゃあ楽しくないし車もないだろうから相模湖に住む長姉夫婦を誘ってみようよ..と言って、連絡してみると偶然か、こちらも旦那だけ仕事だと言う。旧盆の最中なのに忙しい人もいるものだと思っていたら長姉が「あたしは暇だから、朝早い電車で行きますよ」との事。はいはい、歓迎させて頂きますよ!
というわけで助っ人探しはどうもうまくゆかない。あと残ったのは実家を継いでいる上兄夫婦か、山荘に一番近い白州町に住む絵描きの下兄夫婦。実家はお盆で忙しいから無理。結局、合唱団の合宿のペンション探しでもお世話になった絵描きの兄さんに電話すると、今夏祭りで東京からお客さんが来ているが午前中で帰るので、午後には手伝いに来てくれるとの事。やっぱり持つべきものは兄弟だ!
その兄が午後3時近くに来てくれて作業開始。朝から一人で頑張って庭の雑草を下刈したので、その延長でまず積もり積もった枯葉を一ヶ所に集めて山にする。兄は畑を持って野菜などを栽培しているので、枯葉などの腐葉土が欲しいから、とりあえず山にしておけば後でもらいに来るからという。
しかし前庭から山荘の側面、さらには裏の敷地一杯を掃除するとなるととても大変な作業になるので、とりあえず前庭と側面の前半分だけと決めて枯葉の清掃を二人で無口になる位頑張る。なんとか前庭の土の面が見えてみるみる綺麗になって来た。いくつか作った枯葉の山をひとつに集めて隣との境界の辺に大きく積み上げてとりあえずこの部分は終了。
標高1,150mの地で大汗をかきながらの作業に時間が掛かってしまい、ベランダの作業は今日中に出来そうもないので、とりあえずベランダのガラクタを山荘の裏に移す作業だけすることにする。
去年から始めた山荘の修理、さあやるぞと最初にアウトドアの雑誌に書いてある通りのサイズで作ってしまった大きくて重い作業台が、ベランダの左半分を占拠している。その下には工具から木端からセメント袋などを押し込んであり、またその横にはストーブ用の薪が積んであるので、最初の頃の様な白樺林に面した快適なベランダの空間が無くなっている。
今回はこのベランダ全体が雨風に晒されて汚くなっているので、綺麗にして防腐、防水の塗装をしてみたいと思っている。最初にベランダ上を空にする。重たい大きな作業台を2人でやっとのことで裏まで運び、山荘の壁沿いに放置する。その回りに残りのガラクタも移動して積み上げる。兄の考えで薪は見栄えよくベランダの床下に積む。
作業台や工具などは合宿が終わったらまた屋根の下に戻さなくては使いものにならないので当座の処置である。少し大きめの物置を作るか、買うかしてそのへんの収納も考えて行かなければならない。大体今時の別荘や山小屋などはみんな基礎のコンクリートを高く立ち上げて高床にしてその部分を収納などにあてているのが普通だが、この山荘を建てる時に自分が忙し過ぎて業者に一任してしまったのが今になって響いている。
お盆時の貴重な時間を頂いて手伝ってもらった兄には、ゆっくり夕食を食べていってもらった。
久し振りの肉体労働と涼しい山の気候にすっかり熟睡。
気持ちよく起きた次の日。塗装用品を買いにさっそく長坂町のJマートに行きたいが10時までは開かないので何回も往復にならないようしっかり買うもののリストを作る。
10時近くなって相模湖と大月の姉二人が電車で小淵沢に着くので、車で迎えがてら僕だけJマートに降ろしてもらう。
塗装に関してはあまり勉強してないのでJマートの店員さんに聞くつもり。塗料のコーナーで店員さんを探していると、すぐ近くで学生っぽい、それも高校生ぐらいの感じの男の子がなにやら作業している。アルバイトだとあまり分からないだろうかと思ったが、他に人が見当たらなかったので声をかけてみた。そしたらびっくり、この子が本当によく知っていたのだ。僕の質問に塗料の選び方、塗り方から刷毛の使い方まで本当に立派に助言してくれた。木部用防虫、防腐塗料の定番と言われる「キシラデコール」と刷毛、ローラーを購入。その他にバスルーム用の桧のすのこ、洗面台のタオル掛け2個、鏡の横につける収納用飾り戸棚、それに撒水用のホース+蛇口キットなどなど買って山に戻る。belanda01早速二日目の作業開始。まず外の水道からホースを回してベランダ全体に強い圧力の水を掛けて洗う。その後、デッキブラシでベランダの床をゴシゴシと擦ってもう一度水を掛ける。ぞうきんを何枚も使って水気を拭き取って行くがなかなか取れない。
お昼近くなったので姉達と昨年できたという近くの中華料理の店に昼食に。山で飲む昼間のビールは最高。
帰って来て作業再開すると下の姉さんからクレーム、「塗装する面は水洗いだけじゃなくて、やすりを掛けてもっと綺麗にしてからやるんじゃないの?」おっと、確かにそうだ。でもやりたいけど今回は時間がない。次回、あまり期間をあけないでもう一回塗り直す時にサンダーを使って色が綺麗に出るようにやりなおそう….そう決めて今回はこのままで塗装することにする。
女房と姉達は小淵沢のアウトレットへ出かけ、少し待つとかなり乾いてきていたので、さっそく塗り出す。色を均一にしたいのでよく塗料缶をかき混ぜてからローラーで大胆に塗ってゆく。床面なので、最後にどう足を逃がしながら全面塗るかというのはしっかり考えてからやらないと手が届かなくなったり、塗った部分に足跡を付けるはめになったりするので大変だ。
ベランダ全てを塗り終わってみると、建物全てがなにも塗装してなかった生のログ材なので、ベランダからどんどん外へと色を着けて塗ってゆきたくなる。本体の壁などは面積も広いのでとりあえずしかたがないが、ベランダの手摺りと、階段、それに正面ドアの枠あたりが、床を塗ったためにかえって汚れが目立つようだ。
これはやっぱり手摺りと階段、ドアの枠は塗らなくてはと思い、残った塗料、キシラデコールの「ウォールナット色」を手摺りの一本に塗ってみるがあまり綺麗ではない。
ピン、ポーン!頭でアイデアが弾けた。室内の床の色よりも暗いウォールナット色のベランダの床にはグリーンの暗いのが絶対合う!
アウトレットから帰ってきた車を借りてすぐまたJマートまで。あった、あった、同じキシラデコールの「タンネングリーン」。床は面積がかなりあるので3.4リットル缶だったが、手摺りなどにはそんなには必要ないと思って1リットル缶を2つ買ってくる。
山に戻ってみると姉達がもう帰ると言う。昼飯を一緒に食べただけで、あとはなにもできなくて申し訳ないと思ったが、少しは彼女達も息抜きになったようなので許してもらう。
結局、僕は小淵沢の駅に見送りにも行かずに塗装に夢中になっていた。
だいたいこの日の天気予報では午後から大雨の予報だったので、なんとなく作業が、あ、まだできる、あ、まだできる…という感じで後々になってしまっていて手摺り等の塗装を決断したのはもう夕方に掛かっていたのだ。
手摺りを半分ほど塗ったところで遠くに離れてみると、自分の暗緑のアイデアがすっかり嵌まっていて有頂天になった。
最後の工程ではもう回りも暗くなってきてベランダのライトを点けての作業になった。作業終了午後7時半。手から足からTシャツまで塗料だらけになっていた。
明日の朝、太陽の下でどう見えるか楽しみだ。
マエストロ・パタネとの約束が迫ってくる10月中旬、オールデンブルグ国立劇場での慣れないドイツ語の歌唱でちょっと狂い始めていた声を、トレーニングして戻そうという事でミラノのカルボーネ先生の下に里帰りし、2泊3日で毎日2時間近いレッスンをしてもらい、久しぶりに気持ちの良い声が戻って意気揚々とドイツに戻りました.
帰ってから11月のオーディションまでのスケジュールは、すでに幕を開けたワーグナーとロルツィンクの2つのオペラを3,4日おきに本番で歌うだけなので問題はないつもりでした.
しかし環境の変化というものは本当にきびしいもの、声をしっかりトレーニングして、イタリア語でうまく歌えるように戻したつもりでしたが、4日おきとは言っても、習いたてのドイツ語でお客さんの前で全力で歌うわけですから、すぐに歌う言葉のタイミングがドイツ語の狭いものに戻ってしまう.それに北ドイツの秋は早く、10月の中頃からは太陽の傾くのも極端に早くなり、午後3時頃にはもう真っ暗になるほどで寒くなってきます.そんな具合で11月に入った時には、もう体調をどう維持したら良いかわからなくなってしまい、風邪を引いたような感じで、歌の調子が極端に悪くなってしまったのです.
しかし今度のチャンスは千載一遇で、自分にとって非常に重要だし、さらには自分に期待を寄せてくれるマエストロ・パタネの為にも頑張らなくてはと思い、出番のない日は練習室を借りて一生懸命声を出してオーディションに備えました.
そして劇場の休暇を取っての11月のある日、電車に乗って2時間強のハンブルグに向いました.指定されたホテルに荷をほどき、その晩はマエストロ・パタネの振るヴェルディ「運命の力」の初日公演を見、終演後マエストロと食事.
その席で明日のオーディションには、ここの劇場支配人で、2年後にミュンヘンの歌劇場の支配人になる事の決まっている演出家でもあるA.エヴァーディング氏の他に、初日を5日後に控えたニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の初のヨーロッパ引っ越し公演ヴェルディ「オテッロ」を振る、J.レヴァイン氏も聞いてくれる約束であると言われた.
そしてマエストロは僕に、とりあえずDr.エヴァーディングに聞いてもらって、ミュンヘンの可能性を第一に考え、レヴァイン氏にはニューヨークでの可能性を聞いてもらおうと言ってくれた.
ここまで言われて、自分の調子がいまいち良くないんですとは言えない.どんな状況でも持てる力で頑張るしかない.<続く>
すっかり雨男の返上に自信を持った僕は、夜半の雨も気にしないで、早朝5時半に目覚めてシャワーを浴びゴルフウェアに着替えてすっかり臨戦態勢。「大丈夫かな、雨?」とか言いながら渋々起きて来たY氏を急がせて二人で納豆ごはんをかきこむ。西コースに着いてみると係の人が2、3人いるだけ。バッグをカートに積んでもらって早速スタート。
まだ6時半過ぎである、体も頭も半分以上眠っている状態でまっすぐ飛ぶはずもなく、案の定まるで初ラウンドの初心者のように右に左に駈け回る。ゴルフ場まで3分と近過ぎるのも考え物だ。
駆け回ったのが良かったのか4ホール目ぐらいからなんとか方向性が出てくる。昨日の久し振りのラウンドでうまくいかなかったポイントを考えて、左の肩を高く柔らかく構えて、左の壁で詰まらないようにフィニッシュを心がけはじめたら、ドライバーがすっかり見違えるように直って、バック・ティーから打ってほとんどIPポイントの旗の周りに集まるようになって乗ってきた。
あとはパットだが、これも速いグリーンで慣れていた打ち方が、微妙なところでインパクトの無い擦るような打ち方になっていしまっていたので、直せると思ったのだが、頭で直すだけではまだ2、3回ごとにミスをするので、もうちょっとラウンドを重ねないとスコアは戻って来ない。
9ホール終わってまだ8時ちょっと過ぎたばかり、これから後ワン・ラウンド位回るとすっかり調子が戻りそうなので続けて行きたいが、ここは男の約束、昨日の負け分の半分ぐらいをY氏から取り戻したので良しとして、山口プロのスタートが迫るトーナメント会場の北コースに向かう。車を近い駐車場に移動してそこから歩いて急ぎ、入口付近の混雑をプロから頂いたファミリー・パスの威力でクラブハウスを通り抜け突破。
ちょうどスタートの一番ホールに着いたとき山口プロの名前がコールされて、ティーグラウンドに上がるところだった。
「ナイス・ショット!」、我々二人の来ているよ!という主張を込めた声に乗ってボールははるか彼方のフェアウェイ上、やや左のベストポジションに。さっそくプロ達はフェアウェイを歩きだす。一方この組に付いて回る我々を含んだ10人ほどはロープの張られた外を並んで歩きだす。
いろんなプロを探しながらあちこち飛び回ったり、あるホールで待ち構えて定点観測したりと観戦のしかたは様々だが、今回のような一人のプロに付いて18ホール回るのは初めてなので面白い。
びっくりしたのはプロ達の歩きかたの早いこと。僕等も自分達がラウンドするときの歩き方には気を付けてリズム良く早く歩こうと思ってはいるがなかなか彼女達ほどには歩けない。このへんを見ただけでも、ゴルフがまさにスポーツで、鍛えられた足腰が必要なものだとはっきり理解できる。
2アンダーでスタートした一番ホールでいきなりバーディー!幸先の良いスタートにY氏は「あのバーディーに僕の料理のエネルギーが貢献したと思うと毎年やめられないね!」と入れ込む。
2番ロングホールは3人ともスリーオンしてのバーディチャンス。山口プロのファーストパットは横を通り過ぎて1.5mもオーバー。最後に慎重に狙ってしっかりパーセーブ。
2 日目のビッグスコアのきっかけにしようと狙ったんだろうね?というのがアマチュア二人の感想だったが、後で本人に聞いたら「特別狙っていったわけではないんですが、インパクトが強く出ちゃったんですよ、あれで3パットしていたらプッツンしてたかもしれません」。我々が考えるほどイケイケの雰囲気ではなかったようだ。
その後、堅実にプレーを続けて行くがバーディーパットが入らないうちに、少しづつ我々にも分かる感じでショットの切れが無くなってきた。
一方やはり一番ホール、バーディで発進した同伴競技者の大場美智恵プロが素晴しいプレーを展開しはじめていた。朝のティーショットから一貫してすごく気持ちよさそうにスイングしているのが印象的だったが、難しい6番のあと、9番でも確実にバーディーを取って5アンダー。一方相性が良いとY氏が言った通りの8番でのバーディの直後に9番で痛恨のボギーを叩いた山口プロは3アンダーでの前半終了。
折り返しての後半、インの9ホールで、二人の明暗がはっきり分かれた。ふっ切れたショットをしながら全然ミスの無い大場プロはただ来るチャンスを待っていれば良かった。全てが噛みあいだしているのがロープの外からもはっきりと見えた。体全体にオーラのようなものまで感じられる。13、14、15、16と4連続バーディ。それも16番は2オンしてのイーグル逃しのバーディーで、この日だけで7アンダーである。こういう状態の人と一緒に回るのも一種のバッドラックかもしれないと思った。
山口プロも後半はショットが戻りだし13番ロングでバーディー。しかしぴったり大場プロについていけるかと思った14番でなんとドライバーを左にミス。木の後で打てずに出すだけで3オン。結局ここでも9番と同じ様に大場プロのバーディに対してボギーを叩いてしまった。
17、 18と二人ともスコアを伸ばせず終わって大場プロが9アンダー、山口プロが3アンダーでフィニッシュ。予選突破は問題なくクリアしたが結果的にこの日トップは15アンダーまで伸ばしたので優勝争いにはちょっと遠い位置に終わったのがかなり残念だ。しかし今日は71で回ってスコアを伸ばしているわけだから別段悪いラウンドだったわけではない。
ほとんどのプロ達がこういう高いレベルで戦っていて、スコアが動き順位が上下するのはほんの微妙な流れや、ラックなどからだと思うとつくづく難しい競技だなと思う。大場プロのような理想的なラウンドをした後でも、それが次の日のスコアを保証するものではないというのをみんな知っているから、ラウンド後にもみんな憑かれたように練習をするんですね。
9月にオールデンブルグでのシーズン開幕公演のシリーズを成功半分、失敗半分でいかにも初心者らしく過ごした後の10月、すぐにミラノに里帰りしたのは、メランコリックな理由もあったが、11月に決まったハンブルグでのオーディションの準備をする為でもあった.
話は少し戻るが、オールデンブルグとの契約が決まった時、もうちょっと良い条件のポストが見つかるようにとカルボーネ先生が、先生の同郷(ナポリ)で世界的に有名な指揮者、ジュゼッペ・パタネ氏を紹介してくれ、彼がイタリアに戻って音楽祭を振っていたヴェローナに彼を訪ねたのだ.
イタリアオペラの最大の夏のイベントで歴史も長く、中世の円形競技場で繰り広げられる「ヴェローナ野外音楽祭」.夏休みになるといつも楽しみに出かけていたが、スタッフのサイドに入るのは初めてだった.円形劇場が本番の行われる舞台だが、その準備の練習のほとんどはもう一つある「フィルハーモニー劇場」で行われる.
7月に入ったばかりのその日は、朝から終日続くオーケストラの練習の休憩時間に、舞台に呼び出されて3曲ほど歌った.マエストロ・パタネは、カルボーネ先生と同郷の先輩後輩で、その教え子の僕をとても暖かく迎えてくれ、相談に乗ってくれました.
歌った後、オーケストラのメンバーが昼食をしているカンティーネに連れていって、「みんな、このMr.コバヤシが今、オーディションで何を歌ったかわかりますか?僕らイタリア人でさえ忘れかけているベルカントの至宝、あのロッシーニの”ウィリアム・テル”の超絶技巧のアリアですよ!」と言って一人一人に紹介して回ってくれました.
食事をしながら、もちろんもう決まっているオールデンブルグの契約の話しをして、できればイタリア語で歌える劇場で歌いたいと相談しました.ドイツと聞いて彼は「11月にハンブルグ・オペラに客演するので、その時に何人かの人に聞いてもらえるよう手配しよう」と言ってくれたのです.<続く>
8/11木曜の夜遅くに東京を出て、友人Y氏の軽井沢別荘へ.次の日から行われる「NEC軽井沢72ゴルフトーナメント」、Y氏のサポートするシード選手、山口裕子プロをバックアップする為に狩り出されたのだが、山口プロには、我々のコンペにも出ていただいたりしているので、待ってましたとばかりにでっぱってきた.
8月の軽井沢は気違いじみて人が集まるので、プロ達も普段のトーナメントに比べてもいろいろな面で大変である.そこで、Y氏と共に山口プロを応援するS氏の北軽にある別荘を宿泊場所として提供し、Y氏は主に彼女達に美味しい食事を提供して頑張ってもらうというサポート活動がここ何年か続いているという事だ.
高速の事故渋滞と大雨に巻き込まれたせいもあり、南軽井沢のY氏邸にたどり着いたのはもう深夜1時近かった.Y氏は明日の彼女達へのメニューを考えて大量に食材を買い込み、スパゲッティソースやらなにやらの仕込みの真っ最中.料理は彼の大得意なのだ、若い頃イタリア料理屋でバイトをした時に仕込んだ腕はかなりなもので、プロ達だけでなく彼の家に来るみんながその料理をいつも楽しみにしている.仕込み中のものの味見をおつまみにして二人でワインを飲みながら明日からの相談をする.
明日はトーナメント初日なので、プロのラウンドには付かないで、自分たちだけで72の別のコースを回り早めに上がって、プロ達の夕食の準備をして美味しいものを食べてもらう.yamaguchi明後日土曜日は予選ラウンド2日目、一番大事な日なのでプロのラウンドについて応援し、同じように夕食の準備と続くのだが、この日は庭でバーベキューをして、別荘のあるレイク・ニュータウンの3,000発の花火大会まであるので、それらを楽しみにY氏の奥様、子供に、Y氏の知りあい夫妻、僕の女房などが、一挙に集まってくる事になっている.そして最終・決勝ラウンドの日曜日は、みんなでプロのラウンドに付いてトーナメントを楽しむという盛りだくさんの予定にあらためてびっくり.
いつもは自分のゴルフに一年中熱中しているY氏が「大雨だし、明日の我々のラウンドは無理だね、ゆっくり起きて買い物にでも行きましょうか」などと言い出すので、真夏の軽井沢での爽快なゴルフを楽しみにしてきた僕としてはなんともつまらない.2,3年前までゴルフや、遊び事では有名な雨男と自分でも認めていた僕だが、なぜか最近はそれが逆転していて、何となく明日の朝になればゴルフができそうな気がしたので「朝起きて無理そうだったらやめましょう」と言って寝る.
朝7時頃に白樺の林を落ちてくる雨の強い音で目が覚めると、Y氏がゴルフ場にキャンセルの電話を入れる声が聞こえた.まあ、できないんだったら仕方がないか…とあきらめて少しベッドでまどろんで、結局8時過ぎに起床.コーヒーを飲んでいるうちに何となく外の雨の音が消えているのに気づく.空を見上げて、二人のどちらからともなく「できるかも?」.案の定もう一度72に電話してみると、同じようなキャンセルが多く空きができたので今からでもOKとの事.
「ほら、やっぱりできたでしょ」と、スタートする頃には雨は完全に上がっていた.やはり同じように飛び込んできた滋賀県からの40代前半のご夫婦と一緒にスタート.我々二人のゴルフはいつもの通り低いレベルでの取ったり取られたりだったが、ご一緒した川岸良兼風のO氏がいきなり2バーディ、1イーグルという35を出してびっくり.世間には上手いアマチュアもいるもんだ.
不調な僕が負けて何枚か払うとその分で肉を買おうと言ってY氏の頭の中はあくまでも夕食の事で一杯の様子.あれほど買い込んだというのにまたスーパーに飛び込んで買い始める.あきれかえるがここはシェフ任せにするしかないので、ゴルフウエア、スパイクのスタイルのままショッピングワゴンを押してついて回る.
テーブル、お酒、料理と、準備万端整って待っていると、6時近くになって山口プロが、今回キャディをお願いしているこちらもプロゴルファーの新坂上ゆう子プロと一緒に、ちょっと不似合いな軽自動車で現れる.スポーツ選手なので当然だが、よく食べよく飲む.それもとても気持ち良く食べ飲んでくれる.とても礼儀正しくて、言葉使いもしっかりしていて、自分の食べた食器の片づけなどにも気がつくし、ゴルフのプレーは明日見られるが、その人柄の素晴らしさと頭のクレバーさににびっくりする.Y氏が必ずしも自分の料理自慢の為だけにではなくて、その人柄にほれてサポートしているのがとてもよくわかった.まだ食べられるの?…という段階からY氏特製のスパゲッティと美味しいスープを平らげて満足そうに引き上げて行った.
予選第1日は好調で2アンダー、70を出して、15位タイとの事.予選通過は余裕の感じで明日のスコア如何によっては優勝争いに絡む可能性もあり、明日の応援を約束してファミリーバッジをもらう.15位タイ、8時46分のスタートというので僕は「早く起きて、早朝ハーフラウンドしてから応援に行こう」と大胆な提案.うまく起きれれば、6時44分スタートでハーフラウンドを1時間半ぐらいで回っても余裕で山口プロのスタートに間に合うのだ.<続く>
8月始めの山中湖、平野地区は学生合宿のメッカである。八ヶ岳・清里の軟派系の学生達と違ってここは体育会系、テニス、サッカー、野球その他考えられる限りの体育会クラブの合宿で混みあっている。そんな状態なのに我々の世話になるペンション「シルバースプレー」さんは 20数名の我々のグループだけで貸切りにしてくれた。山中湖のペンションとしては決して大きい方ではないが、夏の一番のかき入れ時に詰め込めば我々の他にまだ10名位は泊まれそうである。
そんな願ってもない状況を作ってくれたオーナーに感謝しながら部屋に荷物を入れ、さっそく昼食。富士山を見ながら美味しいハヤシライスをいただいく。
小休憩の後は、2日間のマラソンレッスンの会場になるスタジオにみんなで移動する。実は3年生のバリトンの堀内クンの実家がこの近くで大きなペンションをやっていて、彼が1年生の時は合宿もそのペンション「ほりのや」さんにお世話になった。ただ我々のような2、30名の音楽の合宿をやるには、ほりのや常連の他の大きなスポーツ団体やブラスバンドなどとのギャップが大き過ぎてうまく共存できないので、次の年から堀内クンのお父さんが考えて下さり、こじんまりとした「シルバースプレー」さんを紹介してくれたのだ。でも我々の合宿の大きなポイントはほりのやさんの持っているこの練習会場であって、他に泊まりながらもここに通ってレッスンする。ここはある有名な写真家の方の撮影スタジオだったものをほりのやさんが買い取り多目的に使っているのだが、我々のようなステージを想定したオペラの練習には最適な広い空間で、最初の年に借りて以来毎年使わせてもらっている。国道から脇道に入り、凸凹道を砂埃を上げながら進み、小学生たちが大声を上げながらボールを追いかけているサッカーコートの横を抜けるとスタジオに着く。スタジオらしい搬入口の大きな鉄扉の前に車を並べて、その横の小さなドアからスリッパに穿き替えて中に入る。最初のレッスン組の生徒達が大声を上げて発声練習をしながらセッティングしている。優に二階家が入るほどの天井の高い空間が気持ちいい。リノリュームの床に素足で触れながら、みんなでたくさんある窓を全部開け放す。縦長のスタジオの奥を開け放すとそこはテラスになっていて、その先は緑の芝生で、これまた外光での撮影用なのか気持ちの良い洗練された空間が広がっている。芝生の回りは板塀と背丈ほどの木を並べて外界からの視線と音を遮断しているので、窓を開け放しても練習できるので快適なのだ。びっくりしたのは去年までちょっと古くて大変だったアップライトのピアノのかわりに、なんと今年はグランドピアノが入っていました。もうこれ以上無い条件になっていやが上にも練習に気合いが入ってくる.
さっそくの一番バッターは1年生の「フィガロの結婚」から。一年生はまだ声の適正というか、どういう声であるかというのがわからないので4人いるソプラノを2人づつにして、各々キャラクター、声の違う役を歌ってもらう。曲自身は簡単な曲なので、オペラというものを知るために、このオペラの台本を読んでもらい理解して、自分達で役柄やシトゥエーションを考えて動けるよう指示しておいた。教えることは山ほどあるのだが、一年生にはドラマ、セリフにあわせて動きながら歌うことをはじめて体験してもらいながらも、声で歌う歌の中ですべてを表現しなくてはならないという一番大事な事を教えてゆく。午後1時半からはじめた練習はこうやって一年生の簡単な二重唱組から上級生へ、さらにはOBを混ぜた大勢のアンサンブルへと基本的には休み無しで続く。出番の無い者達はスタジオ内のあちこちで好きな姿勢で聴講している。自分の課題の楽譜を眺めながら準備している者もいる。スタジオの入口から入った手前左に階段がありそこを昇るとガラス張りの小部屋があり、そこから下のスタジオ全体が俯瞰できる。東京芸大の大学院に進んだOBのバリトン・岡クンが好きな場所のようだ、そこから身を乗り出して猿の様な姿勢でずーっと練習を見ている。学生達は普段大学のレッスン室で先生と2人きりでの個人レッスンなので、あまり他の人がどんな声をしてどんな歌を歌うのか知らないので、こうやって仲間たちの歌を聞くと非常に刺激されお互いに頑張りだす。ましてや卒業したOB達がそれなりに大人の声でしっかり歌うのを聞くと、すぐ尊敬の眼差しに変わって目が輝いてくる。
今日、一日目のレッスンは最初、午後の3時間と夕食後の2時間という予定だったが、スタジオがどうしても夜使えないということで急遽変更して、午後のレッスンをそのまま7時半まで続けて、夕飯を遅くしてもらうことにした。
というわけで6時間のマラソンレッスンの最後は昨年卒業したOBのソプラノ・佳奈チャンのアリアのレッスンになった。彼女は明るい性格と人並外れた頑張りやさんでクラスの中心だったが、卒業にあたっては外国でのさらなる勉強環境を求めて、アメリカやニュージーランドなどに短期留学をしては自分の勉強場所を探していた。卒業以来歌は聞いていないので心配していたが、今回聞いて安心した。少し体が大きくなった分、学生時代より声が落ち着いて大人びてきて良くなっている。お父さんの会社を手伝いながらも歌のレッスンはしっかり受けていて、また近々留学も予定しているようだ。目標を持って頑張っている事が分かってうれしくなった。
長いレッスンが終わりみんなでペンションに帰る。遅くしてもらった夕食の準備が整っているのでさっそくみんなで待望の夕食。ここ「シルバースプレー」の食事はとても豪華で美味しく量も多いのが特徴で、大きなお肉にみんな目の色を変える。今日一日強行軍のスケジュールだったし、明日のレッスンもあるので、みんなアルコールも控えめにして部屋に戻る。いつもだとここから近くの温泉にみんなして繰り出すのだが、夕食が押したために今日は無理。さっとシャワーを浴びて、バタンキュー!
ここ何年か夏の合宿というと天気に恵まれず、大雨や、台風などにいつも遭遇してしまい、学生達を残念がらせていたが、今年は晴れた.2,3日前の天気図には沖縄の南に台風もあったが、それも中国大陸に向ってくれて、合宿に向う朝、車に乗る頃にはピーカンとなり、気温もうなぎ登りで今年一番の夏日になった.
8月5日は河口湖の湖上祭である.中央高速の大月インターのすぐ近く、大月市初狩町というのが僕の生まれた場所で、今でも実家があり93才のお母さんと2番目の兄家族が住んでいるが、それこそ子供の頃、毎年のようにこの時期になると、その実家から河口湖にいる親戚を訪ねては湖上祭に繰り出した思い出が残っている.その親戚では船を持っていて、夕方から繰り出し、涼しい舟の上から花火の上がるのを楽しむのが年中行事だったのだが、子供の僕にとっては、舟の揺れで気持ちが悪くなり、頭の上で轟く花火の爆発音が怖くて、お母さんにしがみついて泣きじゃくっていた記憶しか残っていない.
この河口湖の湖上祭の当日は高速道路も一日中渋滞が起こるので、それを避ける為、我々の合宿隊は朝7時前に出発.それぞれの集合地点から車4台に分乗して出発し、とりあえず八王子インターを入った地点で点呼.思っていたほどは渋滞していないようなので気楽な気分で一路、河口湖へ.スイスイと渋滞ゼロ状態で進み、河口湖に着いてみるとなんとまだ8時半である.
山中湖のペンションには12時頃到着予定であるから3時間を潰さなくてはいけない.我々のは音楽の合宿であるから雨だろうと台風だろうとインドアでレッスンは消化できるのだが、ここ何年かレッスンとレッスンの合間の遊びや、外でのレクレーションが悪天候で十分にできなかったので、今回はこの機会を逃さず、最初から予定変更して富士五湖巡りをすることにした.真っ青な空の下、窓を開け放した4台の車が連なっての快適なドライブで、お金のかかる風穴や氷穴は横目で見て通り過ぎ、樹海の中を抜けて静かな西湖の畔に.ここは僕の大好きな場所の一つ.静かな湖畔のカフェのテラスに陣取って、涼風を体中に受けながら、夏空と湖の青色とそれに挟まれた深い原始の緑色のキャンバスの上、湖上のウィンドサーフィンや釣り船の意外に緩慢な動きを目で追うだけの時間.下界を離れた時間の止まった世界がここにある.
親しい友人だった映画監督の相米慎二とつるんでよく富士山麓にゴルフに来た.ガンで亡くなる前の夏だったか、やはりそんなゴルフの後、いつも行く山の中の隠れ家のレストランには行かず、僕の思いつきでこの西湖畔に来てこのカフェのテラスを見つけてビールを飲んだ.今日は夕方東京で用事があるから…と朝から言っていた相米が急に携帯を取り出して夕方の用事をキャンセルしたのを思い出す.あの時の相米の眼鏡越しの視線、俗社会から完全に遮断された理想のロケーションを値踏みする映画監督の鋭い視線に混ざって、自分の生まれた故郷に戻ってきて喜んでいるような少年の目の輝きがあったのを妙に憶えている.その時以来、富士山麓でのゴルフの後はよくここに足を運んで、僕らは静かに時間を過ごした.相米が一番似合う場所だった.0そのカフェの前で全員で記念撮影をして、ずーっと西湖を一回り、一番奥のキャンプ場近くの畔で小休止.湖に流れ入る小さな川におたまじゃくしを見つけて、子供に混ざって取ろうとみんな頑張るがなかなかうまく行かない.そこは昔の少年に任せなさいと、すくい取って見せると学生達は目を丸くしてびっくりする.向こうの端では他の学生達が湖水に向って石を投げて「水切り」をしようとしているがうまくゆかない.先生できますか?というから、投げて水を切って見せると「すごい!」と大受け.僕らの年代には少年の頃の遊びの財産がまだたくさん残っているのがわかってなんか楽しい気分になってきた.
再びそこから車に乗ってそろそろと山中湖に向う.バイパスで向うと、富士急ハイランドの辺から浅間神社を越えて忍野の入り口付近までは渋滞がいつもあるので、ナビゲータとしては富士桜を抜けての近道を選択.鳴沢CCの下から入り、富士レイクサイドCCの横を抜け、5合目に行く富士スバルラインを横切って、浅間神社の裏を降りてきてバイパスに合流する.
山中湖で合宿する前にはこの浅間神社の横の森の中のペンション兼レストランで合宿し、富士レイクサイドCC横の素敵な八角形の別荘兼音楽ホールを借りてレッスンをしていた.今回参加のOBの中にはよく憶えている者もいて、車から乗り出して「ここ、ここ!」とかアピールしていた.
浅間神社からのバイパスも予想したほど渋滞してはいなくてスイスイと山中湖畔に.左回りで狭い湖畔の道を平野に向かい、11時過ぎには山中湖平野のペンション「シルバースプレー」に到着.現地集合の3名もすでに到着している.去年もおととしも見る事のできなかった富士山がペンションのテラスの向こうに大きく見えて、合宿・晴バージョンの始まりである.<続く>
