Blog TenorCup

ブログ倉庫1(2005/4-2014/10)

毎年恒例の小林門下の声楽発表会(コンサート)がいよいよ来週に迫った。
大学のカリキュラムの大幅な変更によって、1、2年生の主科(声楽)に対する真剣さが増して教室内は活気に満ちている。夏の合宿から出始めた積極的な演奏態度がやっと内容ににじみ出てくるようになったのが楽しい。
秋からは、合宿までとがらっと変わった課題を各々に渡し、こまめに一人一人の歌、声を探り探りレッスンしてきた。
以前のようにあまり細かく手取り足取りはせず、型にはめようともしないで、自分で考え、自分で動き出すよう我慢しながら教えてきたが、少しずつだが成果に表れて来つつあるのを感じる。
29日の発表会は、昼前から会場でリハーサルをし、ほとんど休み無しで17時30分から本番が始まる。
前半の第一部は1、2年生のステージ。1年生が5人(ソプラノ4 + バリトン1)、2年生が2人(ソプラノ、バリトン)の計7人が、各々ソロの曲を1〜2曲歌って、その後は2人ずつになってオペラの二重唱を歌う。今年はバリトンが2人いるので女性達も一年時から男声との二重唱が歌えて近年になくラッキーである。総じてこの1、2年生達は声も良く出て感性も豊かで非常に楽しみな学年である。
短い休憩を挟んでの後半、第2部は、3、4年生プラス卒業生のステージとなる。3年生は8人(ソプラノ4 +テノール3 +バリトン1)、4年生が3人(ソプラノ3)、それに最近の卒業生が4人(ソプラノ3 + バリトン1)の計15人。こちらもソロの曲とオペラの重唱をやるが、曲も長く難しいものになり、1人何曲も歌うので、演奏時間はかなり膨大になってしまう。前半の1、2年生達のステージが約1時間と計算しているのに対して、後半は3年生のソロだけで1時間、4年プラス卒業生のソロとオペラ重唱6曲で1時間40分程の計2時間40分もかかる計算で、前半と合わせて3時間40分、休憩を入れて、計算通りに行ったとして21時30分の終演の予定である。内容も盛り沢山である。特に最後のステージのオペラ重唱では、演技をしっかりつけた「ヘンゼルとグレーテル」、「セヴィリアの理髪師」などから、小林門下としては初めて「トスカ」からの二重唱、「ボエーム」の4重唱などかなり本格的なプログラムになっている。アンコールで4年生を囲んでのフィナーレを歌い終演となりホールの締め出し時間ぎりぎりで記念写真をとり、後片付けを大急ぎでして追い出されるようにして打ち上げ会場に直行するのがいつものパターンだ。驚愕することだが今年は1人も落ちこぼれなく順調に成長して来てくれたので、この発表会での演奏がとても楽しみである。
11月29日(火)の17時30分開演、「東大和市ハミングホール・大ホール」(西武拝島線「東大和市駅」か多摩都市モノレール「上北台駅」から、042-590-4411)にて『入場無料』

記憶にもまだ新しい北朝鮮からの拉致被害者家族の帰国。あの時大活躍をした中山恭子元内閣官房参与、元のウズベキスタン大使からうれしい最新著書の贈呈を受けた。その著名も「ウズベキスタンの桜」、1999年から2002年までの3年間のウズベキスタン大使としての滞在記である。
僕が幸運にも中山さんにお会いできたのもそのウズベキスタン大使時代で、本の中にも出てくるウズベキスタンの独立10周年記念事業として團伊玖磨先生のオペラ「夕鶴」を首都タシケントで上演した時の事である。
なぜウズベキスタンの独立記念に日本のオペラなのかというのはこの中山さんの本の中にも説明されているが、ともかくもウズベキスタンの人達にとって日本、日本人と言うのは非常な尊敬の対象であるという。第二次世界大戦後、ロシアに捕虜となった日本兵が抑留され強制労働をさせられていた収容所がウズベキスタンにも多数あり、冬には零下何十度という極寒でのその人達の労働力により街の主要な建物が建てられて今残っている。度重なる地震等の天災にもびくともせず、日本人のその誠実な仕事ぶりが高く尊敬されていると言うのだ。そしてその中でも中央アジアで一番の美しさを誇る首都タシケントの「ナヴォイ劇場」もそうした日本人抑留軍人達によって建てられたもので、その劇場の壁にはそれらの行為を大きく讃えたプレートが掛かっている。
2000年夏にここを訪れた羽田攷元首相夫妻と中山さんとで発案されて、この劇場で日本の誇る美しいオペラ「夕鶴」を公演しようとなったのだが、びっくりしたのはこの劇場を実際に建てたその元日本軍人の方々が生きていらして、この「夕鶴」の公演にあわせて日本から何十年ぶりに劇場を訪れ観劇に加わってくれたことでした。
羽田先生夫妻やウズベキスタン協会の会長でこの時の総合プロデューサーとも言うべきジャーナリストの嶌信彦さんなどによると、元ロシアのこうした日本人抑留者達の足跡は中央アジアのほとんどの国々でたくさん見られて、まだ日本に帰国できずに眠っている日本人達の墓地がたくさん残っているというのだ。
戦後生まれの戦争を知らない僕等にとってはこの時ウズベキスタンで経験したことは、初めて自分達の親達の過去を目のあたりにすることであったし、歴史でも地理でもヨーロッパまで飛び越してしか勉強してこなかった、僕等の本当のアジアの隣の人達の素晴しい社会の現実を見ることでもあった。僕自身、その2、3 年前から羽田先生などに連れられてのモンゴルをはじめとした中央アジアへの旅が、この年このウズベキスタンに至って、自分の頭の中の世界地図が日本から中国を越え中央アジアを通ってヨーロッパへと一枚のものになった感じがした。
ウズベキスタン公演のあとは、隣のカザフスタンでも「夕鶴」を上演し、さらにはまたその隣でやはり大変親日のキルギス共和国までスタッフ全員で訪れることができた。帰る頃には主催の国際交流基金の方々とも、早いうちにもう一度この中央アジアに帰って来ましょうと約束して帰って来たのですが、我々が成田に帰り着いた2001年9月5日のその日から一週間も経たないうちに「9・11」が起こってしまい、ズルズルと中央アジア諸国は戦火にまみれて行き、我々はじめ関係者みんなの手からも大切な宝物がどんどん遠ざかって行ってしまいました。
「ウズベキスタンの桜」はとても美しい本で、その散りばめられたたくさんのウズベキスタンの素晴しい原色は写真集と見紛うほど、また文章は中山さんのあのウグイスのような優雅なお声で語り掛けられているようで、愛情深くきめ細やかに見聞されたウズベキスタンの街の様子が読むものを幸せにしてくれます。こんな優雅な雰囲気の女性が大使着任早々の日本人拉致事件や、2002年の北朝鮮との交渉等で粘り強くお仕事をされてしっかりと解決して行く様を見せられると、ポスト小泉として名前が上がらないのが不思議に思えるのは僕だけだろうか。