やっと掴んだオールデンブルグ国立劇場との専属オペラ歌手の契約書を持ってミラノに帰ってきた.歌の先生に報告すると「Kazuoが地の果てのように遠くて行き来の簡単にできない日本に帰ってしまうよりは、あまり好きではないがドイツだったらイタリアと地続きなんだから何かあったらいつでも帰ってこれるから、ともかくよかった」と喜んでくれた.「それどころか歌い手としてちゃんと給料をもらえるんだから、声の調子が悪くなったらすぐ飛行機で帰ってきますよ」とちょっと偉そうに答えたのを憶えているが、その後ドイツで生活し始めてからすぐに現実の厳しさを味わう事にはなった.ドイツの殆どの劇場では当時、イタリア・オペラもフランス・オペラも全てドイツ語で上演されていた.8月までの一ヶ月半の間、私に与えられた大きな課題はドイツ語の習得だった.もちろんイタリア語とともに音楽には必須なので大学時代にそれなりには勉強してあった.しかしイタリアで生活をし始めてから僕の頭脳の語学関連の部位は、中途半端な英語やドイツ語の部分を消去してイタリア語が詰め込まれ始めていた.ドイツ語なんて簡単な会話ですらとても使えるような状態ではなかった.すぐにドイツに移って現地で学び出せば良かったのだが、第二の故郷のように好きな町を離れがたく、ミラノでドイツ語を勉強する事にした.すぐ仕事で使う為に非常に集中して勉強するので、やはり一番は個人指導の語学学校という事で日本でも有名な「ベルリッツ」に申し込んだ.そして初めてのレッスンの日、その個人指導のドイツ人に会ってみると、なんとこの女性が、僕と同じ門下、つまりカルボーネ先生のところで一緒に歌を勉強しているドイツ人のソプラノだったのでびっくり.彼女はアルバイトでドイツ語を教えていたのだ.良い人を見つけたので、もちろん払ったお金は返してもらえないのだが、ベルリッツには内緒で個別の特訓を安く沢山してもらった.さぞかし上達して8月からの劇場での練習では不自由なかった…と言いたいところだが、実際のところその時はさっぱり身に付かなかった.今考えてみると、ドイツ語を教えてもらうのだが、説明などは全部イタリア語だった.もちろんミラノのベルリッツなんだから当然なのだが、個人指導の同僚ソプラノのイタリア語は私より下手で、彼女としては習得途中のイタリア語を駆使して説明しようとするので、イタリア語の会話に優越感を持つ僕もついついイタリア語が多くなるという状況が作られてしまい、後々の実感として、この期間にドイツ語ではなく、逆に僕のイタリア語が飛躍的に上達してしまったという結果になっていたのだ.そんなドタバタ状況でのドイツでの劇場デビューの時のはなしは、<続く>

23
6月
