そんな単調な生活の中で心が踊るのはミラノへの帰省だった.ミラノを出てくる時に「オペラ歌手として給料をもらえるから、毎月一回ぐらいは飛行機で帰ってきますよ」と恩師カルボーネ女史の前で切った啖呵を遂行するのはとても無理な話だった.オペラも練習期間が終わって初日を迎えてしまえば後は公演の日に体調を合わせて歌って行くだけであるから、スケジュール的には充分時間が取れた.しかし先立つものの計算が甘かった.給料は初年度が1,500 DM(ドイツマルク)、当時で12、3万円ぐらいの換算だっただろうか.しかし音楽ユニオン費、失業保険等の諸費が引かれて実質8〜9万円というところだった.北ドイツは生活費が高くイタリアで思い描いていた暮らしをしようとすると最初から無理だった.アパート代、借りピアノ代、食料品、交通費等すべて高かった.そんな状況でとてもイタリア帰省の費用が出るはずはなかったのだがどうしても帰りたかった僕は、もらい始めて3ヶ月目に早くも給料の前借りを事務局に願い出て、なかば強引にミラノの空気を吸いに戻った.ホームシックも少なからずあったが口実もちゃんとあった.生活の環境も変わり仕事の歌も全部ドイツ語になったので喉と歌の調子を崩していたのと、ある一つの重要なオーディションを翌月に控えてボイストレーニングをしなくてはならないというものであった.
飛行機はあっさりあきらめて、ドイツを北から南に縦断してスイスを経由してミラノまで行く夜行列車を使って帰る事にした.夜の9時に隣のブレーメン駅を出て、ドイツを縦断しスイスを越えてミラノ中央駅着が翌日の昼2時過ぎという列車で、当時、日本とヨーロッパの直通便が引かれたばかりで、情報だとパリから東京まで17時間で着いてしまうという事を聞いていたが、ちょうどそれと同じ時間がかかったというのを憶えている.カルボーネ先生と2,3の友人、それにお世話になるペンションへのお土産をバッグに詰めて10月中旬、初めてミラノ帰省の夜行列車に乗った.10月になると北ドイツは昼が極端に短くなって3時過ぎにはもう暗くなってくる.つい5ヶ月ほど前、反対向きの夜の列車でオールデンブルグに向っていた時は誰も人間の住んでいない地球の果てまで連れて行かれるような不安で一杯だった事を思い出し、自分の好きな人たちの住んでいる自分の故郷に帰るうれしさで心の躍る今回の帰省との違いを感じながら眠れずに目が光っていたのを思い出す.<続く>

19
7月
